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平塚・大磯・二宮・中井 文化

公開日:2022.03.24

新連載
鎌倉殿と平塚の七人 Zoom up
第2回 土屋三郎宗遠

  • 土屋一族の墓

  • 七国峠「供養の松」

 平塚市博物館が公式YouTubeチャンネルで公開している、鎌倉幕府創業に関わった郷土人物を描く動画「鎌倉殿と平塚の七人」。本連載ではこの企画とコラボし、本編動画と関連したエピソードを紹介します。

◇  ◇  ◇

 土屋三郎宗遠は相模国南西部を地盤とする武士団「中村党」の一族、中村荘司宗平の三男で土肥次郎実平の弟です。本拠の土屋には宗遠に縁のある寺社の他、館址伝承地や土屋一族の墓があります。

 宗遠は挙兵当初から頼朝を支え石橋山の合戦にも名を連ねます。敗戦直後の宗遠の足取りは記録されていませんが、房総半島に渡った頼朝たちが下総国府(千葉県市川市)に着いたとき、宗遠はしっかりと頼朝の傍にいました。千葉常胤と上総広常の参陣を受けて、使者として甲斐国の武田信義のもとへ向かい「駿河国に進軍し、平家軍迎撃のため黄瀬川に参集せよ」という指令を伝えます。この指令に基づき武田軍は駿河国へと南下、平家方の橘遠茂軍を撃破して頼朝軍と合流します。こうした使者には相手の信頼が必要です。頼朝から甲斐国への使者は2回。先ず安房国から舅の北条時政が来着したとき、その姿を見て武田信義は頼朝の生存を確信したはずです。次なる使者の使命は頼朝軍の現状を伝えて士気を高める事。頼朝に房総の武士団が味方につき大勢力になっていることを、側近の宗遠が直接語ることで、武田の諸将は信頼に足る情報として受け取ったことでしょう。

 さて、戦場での派手な武勇伝は伝わっていない宗遠ですが、土屋には宗遠にまつわる伝説が語り継がれています。石橋山の合戦で戦死した子の忠光と和田義盛の乱で戦死した養子の義清、そして郎党たちの霊を慰めるために、領内で最も見晴らしの良い所に松を植えたという話です。その場所とは甲斐、駿河、伊豆、相模、安房、上総、武蔵の七か国を見渡せると言われた「七国峠」。現在「平塚八景」の一つに数えられるこの地には宗遠の思いをつなぐ「供養の松」が植えられています。

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