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平塚・大磯・二宮・中井 文化

公開日:2023.05.25

歴史ばなしの舞台を行く【5】
 中原御殿(平塚市)

  • 中原御殿跡

  • 南原善徳寺

 前回は、今年のNHK大河ドラマ「どうする家康」の主人公である徳(とく)川(がわ)家(いえ)康(やす)(一五四三〜一六一六)のゆかりの地として豊田の清(せい)雲(うん)寺(じ)(平塚市)を紹介しました。

 その清雲寺は、文禄四(一五九五)年、金目川の氾(はん)濫(らん)で水に浸かってしまいます。金目川による水害は、たびたびあり、家康がよく利用する場所が、そうした危険にさらされるのは良くないということで、清雲寺にかわる施設を別の場所に設ける必要が出てきました。そこで築かれたのが中(なか)原(はら)御(ご)殿(てん)です。その経緯は、「中原御殿と小川庄左衛門」でお話しました。

 中原御殿があった場所は、現在、中原小学校になっています。ここは砂丘上にあり、それまで金目川の氾濫で水に浸かったことはありませんでした。かつては武(たけ)田(だ)信(しん)玄(げん)(一五二一〜一五七三)が小田原の北条氏と戦うために関東へ出てきたときに築いた砦(とりで)があったとも伝えられています。

 中原御殿の造営を任されたのは、このあたりの直轄領を支配する代官頭の伊(い)奈(な)忠(ただ)次(つぐ)(一五五〇〜一六一〇)です。伊奈は、河川改修や新田開発に実績のある技術官僚でもありました。

 そのもとで、実際の指揮をとったのが、小(お)川(がわ)庄(しょう)左(ざ)衛(え)門(もん)です。庄左衛門はもともと小田原北条氏の家臣で、玉(たま)井(い)帯(たて)刀(わき)という武士でした。

 小田原北条氏は、北(ほう)条(じょう)早(そう)雲(うん)(一四五六〜一五一九)を祖にする関東屈指の戦国大名でしたが、天下統一を目指す豊(とよ)臣(とみ)秀(ひで)吉(よし)(一五三七〜一五九八)との戦いに敗れました。その領地を受け継ぐ形で関東に入ってきたのが、徳川家康です。

 こうした中で、玉井帯刀は、領地のあった豊田に土着して農民として暮らしていたと思われます。そこに御殿造営の話が持ち上がり、その責任者として付近の地理に明るい玉井に白羽の矢が立ったのでしょう。このときに小川庄左衛門を名乗るようになります。小川は、母方の苗字です。

 庄左衛門は、御殿造営にあたり、豊田から何人かの人を連れて、中原に移住します。そのため中原は当初、豊田新宿とも呼ばれていたそうです。

 御殿の大きさは、大正二(一九一三)年の測量図によると、東西約一八〇メートル、南北約一三五メートルで、土(ど)塁(るい)と堀がめぐらされていました。土塁は、高さ約九〇センチメートル、堀は、幅約一〇・九メートル、深さ約五・五メートルでした。

 御殿は、家康が鷹(たか)狩(がり)するときの拠点であっただけではなく、江戸と上方を行き来するときの宿泊所でもありました。幕府の重要な話もここで話し合われたこともあったでしょう。

 ですが、家康没後は将軍が使うことはなく、明暦三(一六五七)年には引き払われました。当時をしのぶものとして南原善(ぜん)徳(とく)寺(じ)の山門があります。これは御殿の裏門を移築したものと伝えられています。

文/平塚てづくり紙芝居の会 たもん丸

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