平塚・大磯・二宮・中井 文化
公開日:2023.06.15
歴史ばなしの舞台を行く【6】
中原御殿・御林(平塚市)
前回からの続きです。今回は、平塚の発展のルーツは中(なか)原(はら)御(ご)殿(てん)にあったというお話をしたいと思います。
平塚市は昨年、市制九〇周年を迎えましたが、平塚の発展は東海道五十三次の宿(しゅく)場(ば)に設定されたことに始まったといえるでしょう。
宿場というのは、公的な職務を帯びた人の宿泊施設や荷物の継ぎ送りをするための人馬が用意されている所です。宿場の設置は、五街道の整備とともに幕府の重要な交通政策でした。
ここで問題としたいのは、平塚宿と次の大磯宿とは、ほかの宿場間の平均と比べてかなり短かい距離にあるということです。平塚の前が藤沢宿、大磯の次が小田原宿であることをみれば、平塚宿と大磯宿は、とても近いといえます。
大磯は、中世に成立した『曽(そ)我(が)物(もの)語(がたり)』にも出てくる古くからの宿場町ですので、宿場に設定されるのは当然としても、平塚をわざわざ宿場にする理由はなんだったのでしょうか。中原御殿の存在と結び付ける説があります。
御殿を管理運営していくには、公用の業務を行う宿場が近くにあったほうが都合よかった。そう考えれば、平塚宿の設定もうなずけます。
中原御殿は、徳(とく)川(がわ)家(いえ)康(やす)(一五四三〜一六一六)という最重要人物が利用する施設なので、防御機能も備えていました。御殿の周りに堀や土(ど)塁(るい)が築かれていただけではありません。東海道から中原御殿へ向かう道は主に三本ありましたが、いずれも直線的な道ではなく、ところどころに屈曲した部分を備えていました。第四回の清(せい)雲(うん)寺(じ)で話した鈎(かぎ)の手道です。敵の攻撃の勢いをそぐための工夫でした。
その道の一つが豊田道です。今、平塚宿本陣旧跡の近くに「豊(とよ)田(だ)道(みち)」という停留所があります。このあたりから、清雲寺のある豊田まで通じる道があって、その途中に中原御殿に通じる道が、鈎の手につながっています。
また、東海道から御殿が見透かされないように設けられた中原御(お)林(はやし)は、江戸時代を通じて、砂防林的な役割、江戸の木材供給地、地域農民の草刈り場でもありました。この御林も、近代平塚の発展に大きく関わっています。
御林は、明治維新後、官有地(国有地)となり、木の多くは伐採され売られました。この広大な跡地に、明治三十八(一九〇五)年、兵器としての火薬を製造するため、工場が造られます。日本火薬(爆発物)製造株式会社です。その後、大正八(一九一九)年には海(かい)軍(ぐん)火(か)薬(やく)廠(しょう)となり、ここを中心に平塚は軍需都市化していきます。人や物が多く集まるようになり、商工業が発達していくのです。
このようにみてくると、平塚発展の遠因を中原御殿に求めてもよさそうです。そうであれば、平塚にとって徳川家康は、とても重要なキーパーソンと言えるでしょう。
文/平塚てづくり紙芝居の会 たもん丸
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