平塚・大磯・二宮・中井 コラム
公開日:2025.06.27
ひらつか歴史ばなし
ひらつか七夕まつり事始め ー昭和時代(戦後)ー
「あの空襲で焼け野原だった街が、ずいぶんと立ち直りましたね」
昭和二十五年(一九五〇)春、平塚市庁舎(当時は見附町にありました)から、窓の外を見ながら話しているのは商工会議所副頭取の宮代長次(みやしろちょうじ)(一九一〇〜一九九五)と平塚市長の柿澤篤太郎(かきざわとくたとう)(一九〇三〜一九九〇)です。
「ええ、平塚駅舎も再建され、駅前広場が五月中には完成します」
五年前の昭和二十年七月十六日夜半、アメリカ軍のB29爆撃機一二三機が平塚を空襲、市域(当時)の七割が焼失しました。
終戦とともに平塚市は、土地区画整理事業などを精力的に推し進め、このときは戦災復興に一応のめどがついたころでした。柿澤は言います。
「このあたりで市民にも安らぎを与えたい。そこで七月上旬に平塚市主催で復興まつりを行いたいと考えています」
「戦災から復興した平塚の姿を内外に宣伝するいい機会にもなりますね」
宮代も賛同しました。
復興まつりは、七月五日から三日間開催されました。田植えなどが終わって農家が一段落する時期とも相まって予想以上の人出となり、商店街も活気づきました。
「商店街の人たちが、この祭りを毎年続けて欲しいと言うんだが、『復興まつり』という名称で毎年行うのはおかしいだろう。何か良い考えはないかね」
柿澤市長は尋ねます。
「私は、若いころ国鉄に勤めていて、一〇年ほど宮城県の仙台にいたことがあるのですが、あそこの七夕まつりは大変な人出ですよ。その祭りは旧暦の七月、つまり八月にやっていますが、平塚でやるのでしたら、新暦の七月七日を中心にやったらどうでしょう。今回の復興まつりと同じ時期になります」
市長の問いにそう答えた宮代は、その年の仙台七夕まつりへ視察団の一人として派遣されました。
そうして、昭和二十六年七月四〜八日に第一回七夕まつりが開催されることが決定します。主催は商工会議所で、実行委員長は宮代長次です。
「やるなら出来るだけ多くの人を集めたい。それには宣伝も大事だが、ほかに人目を引くような企画が必要だ。そういえば、この春にミス日本コンテストというものが行われていたな。平塚でもこれを取り入れてみよう」
宮代は、ほかにもNHKの人気アナウンサーを呼んできたり、東京八大学対抗角力(すもう)を開催したりと、いろいろなイベントを用意し、多くの人を集めました。
竹飾りは、現在と比べると簡素なものでしたが、年々豪華になり、人出も増え、今では全国有数の祭りとなりました。祭りのあり方も、その時その時で変化してきましたが、これからも未来に引き継ぎたい平塚の行事です。
作・画/平塚てづくり紙芝居の会 たもん丸
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