終戦70年を迎える今年、小田原に残る戦争の記憶を、人・もの・場所を介してシリーズで綴る。第3回は当時小学生で下曽我駅の空襲を体験した瀬戸(旧姓・芹澤)キクエさん(82)。
上曽我で建設業を営む家庭に5人きょうだいの次女として生まれたキクエさん。常に死と隣り合わせの危険な時代で、両親は「(自分たちが)生きている間だけでもこの子たちを育てよう」との覚悟のもと子育てをしてくれた。
戦争が勃発したのは曽我村国民学校(現・曽我小)
の低学年の時。「動くものが標的にされる。機体を見たらピクリとも動くな」という学校での教えを守り、集団登校時も上空を敵機が通過すると一斉に伏せて身を守る日々だった。「学校ではなぎなたの訓練もして毎日が命がけ」。遊び盛りだったが、学校から帰ると山に出かけ夕食のためのセリを採った。道中、草原に仰向けになり、空を行くB29の機体を数えることも日課になった。「戦時中の経験が私たちを強くした気がします」と振り返る。
兄の戦死と下曽我空襲
毎日のように空襲警報が鳴り響く中、父・由久造さんは足が悪く防空壕に避難するのは困難。「親がいなければ私たちも生きられない。死ぬなら皆一緒」と家の中でじっと身をひそめた。 そして忘れもしない1945年8月5日。その数年前、兵隊に向かう兄・國勇さんを家族や部落の皆で国旗を片手に見送った下曽我駅を目がけ、「バリバリバリ」と音を立ながら機銃掃射された。キクエさんはその様子を何重にも重ねた布団の間から見守った。「本当に怖かった」と70年経った今なお声を震わせる。
沖縄に出征していた國勇さんから届いた無事を伝える手紙。終戦を迎えたのはそれから数日後だった。だが、帰還を待ちわびた家族の元へ届いた悲しい知らせ。戦渦を生き抜いたにも関わらず國勇さんはマラリアで死去したとのことだった。「栄養が摂れれば助かっていたはず。戦後の混乱期で満足な医療を受けられなかった」。その後、家に戻ったのは骨箱に納められた髪の毛だけだった。あれから70年が経つ今年の夏も、愛する兄が眠る沖縄へ出向き、手を合わせるつもりだ。
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