タウン・レポート "まほろば秦野"とは
▼秦野を見渡せば様々なところで「まほろば」の文字に出会う。「まほろば大橋(公募決定)」、「秦野まほろば天文台(秦野総合高校・公募決定)」、「まほろば盆まつり」、記者発表資料として市から配布されるのは「まほろば秦野通信」。その起源はどこにあるのか。
▼漢字で「真秀場」と書くこの言葉は「人々が暮らす場として優れた所」を意味する大和言葉。古事記の倭建命(ヤマトタケルノミコト)の歌「倭(やまと)は国のまほろば たたなずく青垣 山隠(やまごも)れる 倭しうるはし」に登場する。また伝説によれば倭建命が東征の折、秦野を訪れ、菩提で休憩し、二ノ塔付近にある岩を踏み締めると湧水が溢れ出たとされる足跡があるという。
▼1985年、市政30周年を迎えた秦野市は、同年4月、環境庁から「快適環境整備計画(アメニティ・タウン計画)」策定地域の指定を受けた。これは当時の環境庁が快適環境整備事業を実施し、全国のいくつかの市町村を豊かな緑や清らかな水辺、美しい街並みや歴史的な雰囲気などが併存するアメニティ・タウン(快適な環境の街)として指定し住環境の改善を進めたもの。市はこれを受け「秦野アメニティ・タウン計画」の策定に取り組んだ。この計画は「市民、事業者、行政が一体となって進める共同事業」という点で従来の行政計画とは異なる。個別に何かを作るのではなく、「どうしたら快適な環境を作ることができるか」という考え方を協議した。同計画推進のため、各地区のまちづくり委員会会長、市内の各種団体代表、市議会議員、行政代表、公募市民など全30人で構成する市民協議会を設置し、計画立案自体を市民と行政が一体となって協議した。同計画策定の準備段階では、市民の手による環境調査、地区別の懇談会、シンポジウムなどを行い、市民からの意見を汲み上げていった。
▼同年10月までの間、様々な市民参加の討論の末、12月の第8回市民協議会において、それらを総括した同計画のテーマとして「まほろば秦野〈私たちが創る暮らしよい都市(まち)〉」が採択された。採択の過程では「昔の言葉を使いその時代に戻るということか」という意見が出る一方、「まほろばって何?と聞かれたら秦野に来てくださいといえるようになりたい」、「今は馴染まれていない言葉でも、みんなで使えば馴染んだ言葉となる」という意見も存在した。さらに倭建命の伝説が残る秦野。古事記の歌は故郷奈良の盆地を指すが、秦野も山に囲まれ、水が豊かな盆地であることから、秦野と奈良を重ね、市が目指す理想の環境として「まほろば」という言葉を使ったという。1986年3月、正式に「秦野アメニティ・タウン計画」は発表され、その知らせを全戸配布で行った。計画をまとめるため、発表直前の協議会は深夜にまで及んだという。
▼同計画は目標年次を21世紀とし、市民から出た意見をもとに4つの駅の整備や弘法山公園、葛葉川峡谷整備などの「21のシンボル事業」を展開。「ひと」「もの」「自然」を活かすことを共通認識に各事業を進めた。その全てではないが多くの事業が形になっている。あれから27年―。「半分田舎で半分都会」といわれる秦野は子どもが伸び伸びし、自然も豊か。商業にも活気は残り、歴史を感じる遺跡もある。あの当時市民、行政、事業者が思い描いた姿は今確かに存在し、「まほろば」は市民の根底にある依り代のようなものになっているのではないだろうか。
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