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秦野 コラム幡鎌芳明元市議没後1年に想う

公開日:2015.11.12

幡鎌芳明元市議没後1年に想う
元秦野市企画総務部長 栗原孝雄

  • 「傘寿を祝う会」で歌を披露する故幡鎌氏(2011年4月)

 幡鎌芳明元秦野市議が亡くなり1年が経った。



 6期24年間に亘り質問と提案をし続けた。1975年の1期目には、自分自身を「秦野市に転入してきた新しい市民6万人の代表」とし、「市当局や市議会で考えられ行われようとしていることをお知らせするために月1回程度のニュースを発行する」ことを公約に掲げた。後には「環境ホルモンなどの人体に直接悪影響(内分泌や生殖機能を損なうなど)のある物質の情報は、国より先に市長自ら市民に知らせるべき」と訴え、特に環境問題を中心に市民との情報の共有をファンダメンタルズとした言動が続いた。



 また、丹沢音楽祭や秦野青少年音楽祭の創設、絵画、彫刻、陶芸、七宝などの工芸を市民が創作する場の必要性を訴え続けた。議員提案を増やすことや、予算の修正案の提出、そして市民が理解し易い条例の定め方にも持論を展開した。



 自身の言動に対する厳しい評価や誤解もあったが、私の記憶と記録をかき分けて気づくことは「一人一人の市民が、人間的な感情を素直に、自由に表現し、生活を享受することが出来る様な市民社会」(宇沢弘文著「経済学の考え方」)の形成に関わる者との自負があったのではないかと。



 1931年京城(現ソウル市)に生まれ、山梨で学問を楽しみ、秦野で市民主権を提唱し、医療研究のために献体し、今は父母とともに藤沢の地に眠ると聞く。同じ時間を共有した者として、稀有な人物に出会ったと思う。



2015年11月

 

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