秦野 コラム
公開日:2022.09.30
常若遊人(とこわかゆうじん)〈秋・【1】〉
源家最後の将軍
エッセイスト・加藤正孝(鶴巻)
K源家三代の動きを整理お願いします。
Yはい。頼朝は流人の身から北条氏を始めとする坂東武士を中心に平家を滅ぼし、奥州平泉の藤原氏を平定して武士の棟梁(鎌倉殿)となり、御家人との強固な主従関係をつくり日本史上初の武士政権を樹立。しかし7年後急死、その後を継いだ2代目の頼家(18)の時御家人13人の合議制ができて頼家を補佐する。
K合議制は、梶原景時の失脚や安達盛長の病死でわずか一年半で瓦解しますね。
Yそうなんです...頼家は母政子の実家北条氏より妻(若狭局(わかさのつぼね))の実家の比企(ひき)家を大事にした為政権にキシミが、つまり政権を支える御家人である北条氏と比企氏の対立が起きる。特に頼家が重病になり(頼家の)後継をめぐって対立はエスカレートします。頼朝は生前、頼家の正室(つつじ・頼家の叔父の源為朝の娘)の子善哉(ぜんざい)(後の公暁(くぎょう))を継がせたかったようです。しかし善哉はまだ4才でしたし(頼朝の)その文書は残っていなかった。
Kええ、そこで比企氏にとって娘若狭局の子一幡(いちまん)が後を継げば自分は、鎌倉殿の外(がい)祖父になれる。一方北条氏は、頼家の弟千幡(せんまん)(乳母の阿波局(あわのつぼね)は、母政子の妹で北条氏)を推挙...。
Y結局、北条氏は謀って(・・・)比企氏(能員(よしかず)以下一族)を滅ぼしてしまったわけです。
K頼家はその後奇跡的に病気が回復しますが将軍職を解かれ(出家させられ)伊豆修善寺に幽閉され暗殺されてしまいますね。
Y北条氏の思惑通り千幡(12歳、後鳥羽上皇より実朝と命名)が三代将軍鎌倉殿になり、時政は実朝の後見人として幕府の梶原、比企、やがては和田(義盛)といった重臣を次々に倒して、いわゆる執権政治を展開していきます。
※実朝〜実(さね)は板をつなぎ合わせるために、その側面につけた凹凸に加工されたもので凸をオスサネ、凹をメスサネという。板をつなぐと面積が大きくなり結合力も高まる。朝廷と幕府の強いつながりを上皇は言ったのでは?
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