高津物語 連載第九八六回「小児科医・野津 謙」
野津譲(ゆずる)氏は、昭和二一年津田山に野津診療所を開設して所長を務めた。氏は明治三二年広島市生れ、広島一中から一高、東大に進み、東大サッカー部を創設した人で、後大学院で血清研究、小児科助手、大正十四年日本体育協会理事、アムステルダム・ロサンジェルス五輪本部役員、昭和六年ハーバード大学公衆衛生部に留学、昭和十年東京都中央保健所学校衛生部長に就任、小児結核早期発見への道を開いた。
一方、アジア初の五輪開催の機運が高まり東京市長が誘致に積極的になり、IOC委員長ラトール氏が来日、二・二六事件後の昭和天皇に謁見、好感触を得、また日本IOC委員嘉納治五郎も「日本が遠いというなら、遠い日本は欧州五輪に出る必要もない」と演説、投票の結果、東京三六、ヘルシンキ二七票でアジア初第十一回五輪は昭和十五年「東京」に決定した。
メイン・スタジアムは「駒沢公園総合運動場」――
オリンピック選手村は川崎市の「津田山公園」に決定する旨、谷川昇(東京都)・五島昇(東急)・黒川征三(体育協会)、野津譲(日本翼賛壮年団理事)東京都、厚生省の協議で決定を見た。
これより早く玉川電車も明治四十年「溝口」乗入れ、同年七月から営業開始、昭和二年溝口乗入れ、余剰電気を高津町に配分し電灯が灯し、津田山に大正十五年『津田山碑』を建てた。
これらの動きは、野津先生を元気付け、現在二四六号線切通になっている津田山に「厚生省国民体育指導者道場」を創設し、野津先生が中心となって「健康教育に関しての考え方、指導技術、内容的指導、チーム活動、地域ぐるみの保健教育等の実践的な指導」が行われた。全国各地からの参加者は「内地留学」という形で、全国各地からの男女指導者が訓練道場に泊まり込みで保健文化向上と、地域ぐるみで保健教育を実践するための指導者講習会が実践された。
野津先生は戦前、東京麻布に住まわれていたが、戦中に津田山に疎開され、戦後も戦争中日本軍が作った弾薬庫に山荘を造って住み込まれたという。
戦後の昭和二一年に「川崎向ヶ丘国民健康保険診療所所長」となられた。
また昭和二二年「野津診療所」所長を務められた。
津田山の歴史は、野津先生と共にある、と思われる。
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