広島への原爆投下から72年が経つ今夏、川崎市平和館(中原区)では「原爆展・特別展」を先月29日から開催。関連企画で講演する「川崎市折鶴の会」の森政忠雄さん(83)は、高齢化で数少なくなった被爆者の語り部の一人だ。自らの体験を通じて、原爆の悲惨さや命の尊さを子どもたちに教え続けている。
森政さんが語り部になったのは、71歳だった12年前。小学5年の孫娘から「夏休みの自由研究で広島の原爆について調べたい」と相談を持ちかけられた。今まで誰にも口にしてこなかったことだったが、「子どもの教育のために必要では」と語る決心をしたという。
「忌わしさと悲惨さで思い出したくない記憶だったが、孫娘に話したことで吹っ切れた」
森政さんが被爆したのは11歳のとき。爆心地から3・7Km離れた小学校の渡り廊下で、閃光と轟音、体を吹き飛ばす爆風が襲い、頭と顔にガラスが突き刺さった。自宅に戻り防空壕で身を潜め、しばらくして外に出ると、黒く焼け焦げ皮膚が垂れた人や、苦しそうに水を求める声――。森政さんの両親と兄妹5人は無事だったが、後に家族で話題にすることはなかったという。
しかし6年前、がんを患い病床にいた兄から「語り部とは良いことしとる。ならば俺の話も加えてくれ」と、初めて被爆当時の話題を交わした。語られたのは、動かぬ母の上で母乳を飲んでいた乳児や建物の下敷きになっていた人に、何もしてあげられなかった後悔の念。それが遺言になった。
ただ、森政さんは被爆した「被害者」の立場だけで語ってはいない。それは「当時の日本の教育や中国や朝鮮半島への侵略などの背景を、公平かつ客観的に語らなければ教育にはならない」との思いからだ。人類が核の過ちを二度と犯さないために必要なのは「真実を話すこと」だと強調する。
「私も限りがある」
川崎市は1982年に、核兵器の廃絶と軍縮を求める「核兵器廃絶平和都市宣言」を表明。1945年4月の川崎大空襲の記録は川崎市平和館に所蔵されている。森政さんが会長を務める川崎市折鶴の会でも、教育教材に活用してもらおうと活動記録をまとめた書籍を2013年に発行し市内の小中高校や図書館に寄贈した。講演の依頼は広島や横浜の小中学校からが多い一方、川崎市内からは今まで1校のみという。
「川崎の子どもたちにも原爆の悲惨さや命の尊さを伝えたい。私も限りがある」。広島の語り部の仲間5人は、他界または入院などで活動に至っていない。「元気な今のうちに。依頼があれば一人でも二人でも受ける」。公平さを保つため政治や宗教とは無関係の立場で、講演後のアンケートを次に生かす工夫もしている。
川崎市折鶴の会の活動として、今年も8千羽の折鶴を広島と長崎に送った。今も核の脅威にさらされる世界で二度と過ちが起きぬように――。森政さんは祈るように語り続ける。
「原爆展・特別展」は9月3日まで。森政さんはあす8月5日に講演予定。川崎市折鶴の会への連絡はメール(kawasakiorizuru@gmail.com)。
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