鎌倉と源氏物語〈第21回〉 二階堂永福寺と『とはずがたり』の作者二条
「武士の都」として知られる鎌倉ですが、『源氏物語』と深い関係があることはあまり知られていません。文化薫る歴史を辿ります。
二階堂にある永福寺(ようふくじ)跡の発掘調査が終わり「国指定史跡」として生まれ変わりました。この寺院は奥州合戦から帰った源頼朝が平泉の大長寿院二階大堂を模して造ったといいます。伽藍は京都の宇治平等院鳳凰堂とそっくりな、中央の伽藍を挟んで両側にある阿弥陀堂と薬師堂が翼廊で繋がれた形式です。宇治平等院と違うのは中央の伽藍が二階建てであること。それで往時は二階堂と呼ばれ、現在の地名として残っています。
絵図が残っていないので伽藍の復元はできませんが、『東関紀行』の作者は「二階堂永福寺はことにすぐれたる寺なり。鳳の甍日にかゞやき」などと記しています。螺鈿細工が施された燭台など、出土遺物からも華麗な寺院だったことが窺われます。ここで二代将軍頼家が蹴鞠をし、三代将軍実朝以降、歴代将軍が花見や雪見、歌会を楽しみました。「河内本源氏物語」を作った源光行(みつゆき)・親行(ちかゆき)親子もそれぞれ三代将軍実朝と四代将軍頼経(よりつね)に供奉して訪れています。
この寺院が残っていたら鎌倉には雅な一面もあったことが実感できたのにと、焼失したのがつくづく残念に思われます。
鎌倉に下向した『とはずがたり』の作者二条も1289年、永福寺を訪れました。「かくて、荏柄、二階堂(永福寺)、大御堂(勝長寿院)などいふ所ども拝みつつ」と記しています。すでに出家しており32歳の時でした。
織田百合子
|
|
|
|
|
|