まもなく戦後73年。本紙では美しが丘在住の西貞義さん(94)に戦争の体験を語ってもらった。
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「バケツリレーの訓練もしたが、実際落ちたらそんなもんじゃない。一面焼け野原だ」。高知県の田舎に生まれ、勤労動員で渡った神戸で空襲に遭ったのは20歳のとき。三菱重工の神戸造船所の工員として勤め、須磨で寮生活を送っていた。空襲警報のサイレンが年中鳴り響き、「来ないことも多かった」というが、その日は違った。防空壕から出た時に、バラバラ落ちる焼夷弾と大きなB-29を目撃。「日本の小さな戦闘機がパンパン、と迎撃しているのを見た。暗かったからよく見えたんだ」
寮が焼け、神戸の駅まで歩いた。大通りで目にしたのは人形のように転がる遺体。「服が焼けて体が膨らんで、男か女かもわからなかった」。ビー、と音がする金属の塊に気づき、拾い上げた。同行者の「危ない」という言葉で投げ捨てた瞬間に爆発。爆弾の一部だったのか、定かではない。持ったままでいたら「今ここにはいないね」
ほどなく召集令状が届き、親兄弟との別れのために帰郷。出発の日には集落総出で見送るのが常だった。隣近所の人の前で「国のために一生懸命働いてくる」と誓い、バンザイで見送られた。「兵隊にいくのは名誉なことだった」。反面、今生の別れという覚悟からか、握った手を離さなかった母のことも忘れられない。
とにかく「辛抱」
兵役では戦闘にあたった記憶はないが「もうこりごり」と話す。浜松市の三方原飛行場の教育隊に入隊すると「3日目から殴られた」。銃の扱い方を学び、飛行場の芝生を作る作業にあたったが、3カ月ほどで朝鮮半島へ。貨物船の船底に毛布を敷き、浮き袋代わりに竹筒を体に結びつけた。水の補充もなく、船の蒸気で喉を潤したという。現地でも上官の視線は厳しく、朝から晩まで何かにつけて殴られる日々。とにかく辛抱する毎日だったが、耐えかねた脱走者や、トイレで自殺する者も出た。「新聞には載らないけど、そうやって死んでいった人もたくさんいるんだ」
終戦後、貨物列車を借り切って部隊で移動。武装解除されており数時間おきに止められ、現地の人に物資を奪われた。暴動に遭い、列車ごとバラバラに壊されて部隊は解散。日本兵であることを隠すため、軍服をボロ服と交換してもらい、母に持たされた千人針の腹巻を山に捨てて歩き続けた。ソウルの港からアメリカの軍艦に乗って帰国し、故郷にたどり着いたのは10月のことだったという。
あれからまもなく73年。「あの戦争を、私なんかが評価することはできないが、平和に越したことはない」。目を閉じ、そうつぶやいた。
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