青葉区 社会
公開日:2025.07.03
射撃場に通った少年時代
新石川在住 工藤義直さん
石川下谷地区の國學院大學たまプラーザキャンパスのグラウンドが、日本軍の射撃演習場の跡地に建てられたことを知る人は少ないかもしれない。新石川在住の工藤義直さん(91)は当時の様子を知る一人だ。
郷土史研究家・横溝潔さん著『山内のあゆみ―石川編』(音羽書房)によると、1940年に当時の陸軍第一師団が「陸軍溝ノ口演習場」としてこの場所を指定したとされている。工藤さんは「工事が始まったのは昭和15(1940)年頃。2年半くらいで完成した」と当時を振り返る。
握った”男の勲章”
すぐ近くの谷戸で代々農業を営んできた工藤さんは、この時国民学校の5年生。学校が終わると土手を登り、演習場の様子を覗くのが日課だった。兵隊たちは200〜400mほど先にある的を軽機関銃で狙う。時には逸れた弾が頭上を掠めたり、兵隊に見つかってビンタを食らうことも。「子ども心に兵隊さんたちは格好良かった。好奇心には勝てなくて」と工藤さんは苦笑する。
朝から夕方まで続く演習の間は赤旗が立ち、農作業を中止しなければならない。だが、大人たちの苦労も露知らず。工藤さんは演習場で拾った弾丸をアクセサリに加工し、学校の同級生に見せると、”男の勲章”と持て囃された。
戦時中も、「農家だから、選びさえしなければ食べるものはあった」と工藤さん。近くの家では兵隊たちが盗み食いに入り、その家の味噌まで持っていってしまったことも。「当時でも笑い話。みんな兵隊さんたちを応援していて、大らかな空気があったかもしれない」と語る。
戦争も末期になると、B―29などの爆撃機が相模湾上空から東京に襲来。現在の宮前平付近では日本軍の高射砲が迎え撃ち、夜でも砲撃が行われた。「この辺りで空襲はほとんどなかったが、高射砲の弾の破片がそこかしこに振ってきていた」。中には大きいもので手のひら大のものもあり、トタン屋根を突き破るほど。防空壕で怯える日々を過ごしたという。
少年たちの憧れの的
終戦後、演習場はしばらく放置された。一度は自衛隊の敷地とする話も出たが、結局は國學院大學のグラウンドに。工藤さんは当時の記憶を辿って、1950年代の自宅周辺を再現したジオラマ「高津谷戸の五軒家」を作った。工藤さんは今でも思い出す。「戦争は良くない。でも体を張って国民のために働いた兵隊さんは、少年たちの憧れの的だった」
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