青葉区 社会
公開日:2025.07.10
機銃掃射で狙われた命
青葉台在住 秦良允(よしまさ)さん
秦良允(よしまさ)さん(87)は1938年5月に東京都麹町で生まれた。実家は銀座で時計店を営んでおり、その2階で暮らしていた。1歳で新宿に引っ越し。第二次世界大戦が始まったのはすぐあとのことだ。
戦時中の記憶で最初に思い出すのは41年、新聞記事の見出しに躍った「シンガポール陥落」の文字。物心がつき始めた3歳頃の話だ。「文字も意味も分からなかったので、母か叔父に聞いたのを覚えている」。当時は日本軍が優勢で戦火は日本に及んでいなかった。
しかし1年後、戦局の悪化に伴い、父が横須賀に出征することが決まった。出征前日、横浜山下町のホテルニューグランドに家族で宿泊。「翌日、東京駅前の広場に行くと他にも見送りの大勢の人が集まっていた」。この時、秦さんは幼いながらに、日常が変わっていく空気を感じていたという。
九死に一生の経験
1944年〜45年にかけて徐々に日本軍が劣勢になり、本土空襲という形で戦火は民間人にも及ぶように。秦さんの暮らしていた下落合も例外ではなく、たくさんのB29爆撃機の焼夷弾が街を炎で染め上げていった。秦さんは防空壕から「不思議なほど冷静な目で、その景色を見つめていた」。
秦さんには忘れられない記憶がある。地元の小学校に入学してすぐ、北区十条の母の実家で過ごしていた時のことだ。いつものように防空壕で空襲をやり過ごし、小康状態になったことを確認し外に出た。直後、「伏せろ‼」と叫び声が耳に飛び込んできた。「とっさに頭を伏せて、腹を地面につけた瞬間、足元からすぐの場所を機銃掃射の弾丸が走り抜けていった…」
疎開先で玉音放送
秦さん一家はその後、茨城県下妻市へ疎開。旅館の2階を間借りした。疎開先の小学校では、1年生ながらに他の生徒たちをまとめる「中隊長」に任命され、毎朝号令をかけていた。疎開先では食料も少なく、苦しい生活だったものの、少しばかりの平穏な時間を過ごした。しかし、戦火から離れた場所でも「『下妻からすぐ近くの鬼怒川で米軍の艦載機にしつこく狙われた』なんて話を聞くこともあった」と命の危機は常にそばにあったという。
8月15日、玉音放送を聞いた。終戦を迎えた際に上級生から言われた「これでお前もただの人だ」という言葉は今も耳に残っている――。「今も世界のあちこちで戦争をやっている。みんなが平穏に暮らすには、戦争なんてしてはいけない。いいことなんか1つもない」と語気を強めた。
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