青葉区 社会
公開日:2025.07.17
戦後80年 語り継ぐ記憶
満州、母の記憶を辿って
桜台在住 湯原靖雄さん
桜台在住の湯原靖雄さん(80)は昨年、母・ツヤさん(享年104歳)を見送った。戦中は満州で生後間もない靖雄さんを負ぶっていたという母。相続の手続きで過去の資料を調べると、今まで語られなかった事実が浮かび上がってきた―。
1940年、女学校特別科(短大)卒業後に結婚し、満州電信に勤める夫に付き添って満州・新京(現長春)へ渡ったツヤさん。そこで長女・長男(靖雄さん)をもうけた。太平洋戦争の戦況が悪化すると、本来徴兵の対象外だった夫にも赤紙が届いた。終戦半年前のことだった。
家族は離れ離れ。夫の安否もわからないまま、残された希望は日本での再会。ツヤさんは子どもを連れ新京を出た。昼は森に隠れ、夜間は線路伝いに南下し、18日間かけて日本からの引き上げ船が待つ葫芦(ろこ)島に辿り着いた。「ずっと抱えられっ放しだった私の背骨は曲がってしまったそう。相当な強行軍だったのでしょう」と靖雄さん。
引き揚げ船内でも気は休まらない。疫痢が蔓延し、姉と昨日まで遊んでいた子が今日はいなくなってしまう。博多を目前に寄港できず、結局は京都・舞鶴港まで遠回りしてやっと日本の地を踏むことができた。
帰国後、親子3人で世田谷の実家に身を寄せ、夫の帰りを待った。その間、NHKラジオ「尋ね人」などで消息を捜したが、夫のいた部隊についてわかったことは、満足な装備もなく何処とも知らない場所で全滅したということだけ。ツヤさんは生死不明の夫の帰還を待ちながら、恩師の世話で小学校の代用教員に。夜間学校で教員免許を取得し定年まで奉職した。
13年、帰りを待つ
今回、靖雄さんが初めて知ったのは、戦後13年経ってから家族の申告により父の戦死が確定し、除籍となったこと。その間は遺族に対して払われる恩給も満額ではなかった。「母の心中はいかばかりか。同じような境遇にあった人も多かったのでは」と靖雄さん。
戦争を知らない世代に戦中・戦後の困難や苦労を話しても理解されず、いつしか人に話すのを控えるようになってしまったというツヤさん。それでも定年後は婦人会館や図書館、シルバー人材センターで精力的に働き、書道に絵画、詩吟に編み物と趣味も多彩に104年の人生を駆け抜けた。
亡くなる前、ツヤさんは新京からの引き揚げの時に靖雄さんが着ていたチョッキを棺に入れてと頼んだ。靖雄さんは「母は大変な人生だったが、もっと生きたがっているように見えた。パワフルな人だったから」と母との思い出を懐かしんだ。
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