戻る

青葉区 社会

公開日:2025.09.18

戦後80年 語り継ぐ記憶
「あの戦争は何だったのか」
あざみ野在住 吉田慶一さん

  • 取り寄せた軍歴証明書を手に、ぽつぽつと記憶を語る吉田さん

 あざみ野在住の吉田慶一さん(104)は、太平洋戦争で10万人以上のが学生が徴兵されたといわれる学徒出陣を経験した一人。愛国心を謳う周囲の大人たちの中、大学の恩師が口にした「君たちはこれから戦争へ行く。正しい歴史を作ってください」という言葉が耳に残っている。

 上海で生まれ、少年期に東京へ。日本は1941年12月、真珠湾攻撃で戦争の火蓋を切った。翌42年6月のミッドウェー海戦、8月のガダルカナル島の戦いを経て陸・海軍はすでに人員が不足し、それまで徴兵が猶予されていた学生たちにも動員がかかるように。当時、現在の一橋大学で商学を学んでいた吉田さんも例に漏れなかった。

人生の分かれ道

 学徒出陣は第一陣が43年12月、卒業を3カ月早めて学生たちが戦線に送り出された。吉田さんは第二陣として44年1月に招集されたが、なぜか11月まで入営を待つことに。その間、先んじて10月に第三陣が入営。「少し時期が違えば、そのまま戦場に送られた。思えばあれが人生の分かれ道だった」と振り返る。

 わずか27日間、即席の訓練を受けて中国へ渡った吉田さん。陸軍幹部候補生として約1カ月ごとに昇格を繰り返すも、上官からは殴られる毎日だったという。「二言目には『上官の命令は朕(天皇陛下)の命令』。中には頭を殴られて耳が聞こえなくなってしまう者もいた」。約1年で見習士官(少尉)に昇格し、陸軍病院で経理官を務めた。最前線へ送られることは無くなり、「正直、ほっとした」と心情を吐露する。

 経理と言ってもその業務は多岐にわたる。兵隊たちの衣食住の手配、給与計算、果ては家畜の解体から去勢まで。「砲弾以外は全部扱った」。亡くなった兵士は、指だけ切り取って、遺骨として遺族に送った。遺体を荼毘に付す際、すき焼きのような臭いがしたことは忘れられない。

終戦でなく"敗戦"

 戦後は当時の三井船舶で海運業に携わる。「船が無くて終戦直後はほとんど仕事にならなかったけどね」と吉田さん。以来、商社マンとして30カ国以上を飛び回り、作ったパスポートは8冊超え。戦後の復興期を駆け抜けてきた。

 だが、100歳を超えた今も「あの戦争はなんだったのか」という思いが頭を離れない。「終戦ではなく"敗戦"。今の歴史教育は二次大戦についてあまり教えられてないように思う。あの戦争は何だったのか。これからの世代にも考えてほしい」と遠い目で虚空を見つめた。

ピックアップ

すべて見る

意見広告・議会報告

すべて見る

青葉区 ローカルニュースの新着記事

青葉区 ローカルニュースの記事を検索

コラム

コラム一覧

求人特集

  • LINE
  • X
  • Facebook
  • youtube
  • RSS