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旭区・瀬谷区 社会

公開日:2025.01.30

神戸市出身・佐治さん
心に残る30年前の爆裂音

  • 震災当時の記憶を語る佐治さん

 「『ドカーン!』と爆弾でも落ちたかと思うような、今まで聞いたことのない音で目を覚ましました」--。阪神・淡路大震災が発生した1995年1月17日午前5時46分の瞬間を、佐治賢さん(49歳/瀬谷区橋戸)はそう振り返る。

身動きできず

 神戸市出身の佐治さんは当時、大学1年生。神戸市北区の実家から、大阪の大学に通っていた。

 2階で寝ていた17日早朝、「ドドド」と地鳴りのような音がしたかと思うと、爆裂音が耳をつんざいた。「地震について横揺れ、縦揺れとか言うけれど、どっちに揺れているなんて分からなかった」。身動きできず、声すら出せなかったという。激しい揺れが収まると1階へ。物は散乱していたものの、足の踏み場が無いような状態ではなく、母親と社会人の兄はともに無事。発災時には仕事に出かけていた父親も、その日のうちには無事が確認できた。

友人の境遇に絶句

 発災後しばらくは停電もあり、被害の全容を把握できなかった。夕方頃のテレビで、煙が立ち上る長田区や、高速道路が横倒しとなった東灘区の映像を見た時も、「どこか非日常過ぎて現実感が無かった」という。

 「自分事」として震災を実感したのは発災2日目。須磨区に住む、同じアメフト部の同級生からの電話だった。その友人は暗い口調で火災で家が燃えてしまったことや、避難所の小学校で生活していることなどを伝え、最後に「前日にショルダー買ったばっかりやったのにな」とポツリと漏らしたという。ショルダーは上半身を守るアメフトの防具で、入学後しばらくは先輩のお古を使うことが多かったそう。「高価なものだし、2年生になる前の冬休みにバイトでもして買ったんだと思う。それが燃えたと聞いて、とてもショックだった」。突如として、理不尽に途絶えた友人の日常。「怒りとも違うし、絶望というとおおげさかもしれないけれど、何かこう胸が引き裂かれそうな想いでした」。

復興ソングに心打たれ

 仕事のために3年前から瀬谷区に単身赴任している。妻と2人の娘が暮らす東灘区は、震災で特に被害が甚大だった地域の一つだ。きれいで住みやすい今の街並みを見ると、復興に尽くした先達の「頑張り」と「偉大さ」に胸が熱くなる。

 神戸市の学校では、毎年1月に歌われている復興ソングがあるという。震災の直後、神戸市の小学校教員だった臼井真さんが作詞・作曲した「しあわせ運べるように」だ。「地震にも負けない 強い心をもって 亡くなった方々のぶんも 毎日を 大切に 生きてゆこう」というストレートな歌詞で始まり、神戸市民にとって復興のシンボルと言える曲だという。

 2人の娘が小さかった頃からこの曲を歌う姿を見るたびに、「震災の記憶を語り継いでいかないといけない」と想いを強くしたという。「横浜市民もそうだと思うけど、神戸の人って本当に地元が大好き。今は離れているけれど、神戸を盛り上げるために、自分に出来ることが無いか考えたい」と胸に秘める。

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