第109話 〜紡ぐ古道・その弐:戸塚の血の雨〜 とつか歴史探訪
これは明治5(1872)年7月7日に大山詣での帰りに起きた東京・横浜の二組の講による事件でした。東京の石屋講は大山での博打に興じる博徒も混じって、東京に5軒・150台の御免人力車全てを買い切り大山に出かけました。
一方横浜のお備講は駕籠で出かけましたが、こちらは当時始まった洋服裁縫屋の連中で景気良く駕籠一挺に駕籠屋が三人付き総体で四十挺駕籠屋の数が百二十人、夏の時期なので素っ裸で彫物を見せて駕籠を担いだとあります。
大山の帰りは江ノ島に泊まり、鎌倉で昼食、その後戸塚で石屋講(東京)は江戸屋に、お備講(横浜)は吉本に小休、その晩は保土ケ谷泊まりとなっていました。
まだ戸塚に着く手前の貝殻坂(現・栄区)で、上りは人力車がどうしても駕籠に負ける、下りは人力車が早かったのですが、どうしたわけか人力車がひっくり返ったのです。そこで東京方は怒り、先に戸塚の江戸屋に乗り込んで、後から来た横浜の連中を吉本に入る前にやっつけたのです。
そこへ出入りの洋服職人を救いに駆けつけた横浜之外国人が加勢に入り、東京方の石屋は丸太を振り回し、戸塚の消防夫が長梯子を持って仲裁に入ったのさえ撃ち殺されてしまいました。死人は山のよう、怪我人は数え切れないほど、戸塚の町は一軒も戸を開けることなく、屋根瓦は剥がされ・ぶん投げられ、お上の御用となったのです。
七日七夜戦い横浜裁判所が本陣に出張し調べ、横浜の駕籠屋一人、東京は車夫一名が懲役となりました。散々人を殺して一年の懲役という安いものでした。
大山詣がいかに市民の一大事業だったのか、とんでもないエピソードでした。
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