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戸塚区・泉区 スポーツ

公開日:2026.01.01

戸塚区・泉区からベイスターズへ
大観衆を力にマウンドで
東洋大4年・島田舜也選手

  • 12月の入団会見で自ら「ハマのモアイ」の愛称を発表する島田選手(左は相川亮二監督)

  • プロ野球入りを祝う席での中岡さんと島田選手(中岡さん提供)

 大観衆に囲まれるハマスタのマウンドで――。戸塚区出身の島田舜也投手(東洋大4年)が昨秋のプロ野球ドラフト会議で、地元・横浜DeNAベイスターズから2位指名を受けた。シーズンが始まる春に向け、「(高校からではなく)大卒からのプロ入りなので、開幕から一軍で活躍できるよう取り組んでいきたい」と力を込める。

 185cm95kgの恵まれた体格を生かして投げ込むストレートは最速155キロ。カーブやスプリットといった変化球を織り交ぜる右腕は、早くからプロの注目を集めていたが、子どもの頃から馴染み深いベイスターズへの入団が決まった。

 「ハマスタの思い出といえば、三浦(大輔)さん。中学生の頃は(山崎)康晃投手の登場に合わせてヤスアキジャンプもしていました」と笑顔で振り返る。

鳥が丘の公園から

 4つ上の兄・蓮也さんとともに、小1から少年野球の坂本レッドジャガーズ(現・鳥が丘フェニックス)に。「基礎をしっかり教えていただいた。投げる、捕る、打つのどれも楽しかった」

 チームの練習以外にも、鳥が丘第一公園には野球少年が集まった。鳥が丘小の3つ上には現・中日ドラゴンズの土生翔太選手がいて、「翔太くんのお父さんが水曜日に公園で野球を教えてくれてたんです。その時間が楽しかった」。スイミングに通う曜日をずらしてまで、鳥が丘第一公園に向かったほどという。

 領家中時代は深谷通信所跡地グラウンドを拠点とする硬式の横浜泉中央ボーイズに入団。中2の秋に投手の練習を始め、プロにも多くの投手を輩出している千葉の強豪・木更津総合高へ進んだ。

兄「決めるのは自分」

 兄と母との3人暮らしだった島田選手。支えてくれた家族には「一生かかっても返しきれないほどの恩がある」との強い思いがある。高校から寮生活になると「それまでやってもらっていた分、最初は苦労したけれど、ありがたみもわかった」と一層かみしめた。

 一方で高校では入部早々に挫折を感じて野球を辞めることも考えた。そんな時に相談にのってくれた兄は、話は聞いてくれたが口にしたのは「続けるかどうか決めるのは自分」。島田選手は「わざわざ千葉まで来たのはプロ野球を目指していたから。夢をもう一度思い返せました」とあきらめずに練習に励んだ。

甲子園には届かず

 2年秋にはエースの座をつかみ、そのまま県を制した。だが、関東大会で常総学院に敗れ、3年夏も専大松戸に決勝で敗れ、甲子園の舞台にはあと一歩届かなかった。

 悔しさを胸に東洋大に進むと、筋力アップの甲斐もあって急速はさらに伸び、「小さな力でも速い球を投げられるようになった」。それにより、コントロールにも磨きがかかった。

 大学2年の頃、同い年の高卒選手がプロで活躍したり、大学の先輩がプロの世界に入っていくのを目の当たりにし、「夢が目標に変わったのはこの頃でした。スカウトの人も増えていってくれたので」。

 振り返れば高校時代はコロナ禍で、県決勝でも声援は受けなかった。そんなこともあって「ハマスタの大声援の中に立つのは楽しみ。緊張はするけど、それも楽しんで力に変えたい」。

 将来はメジャーリーグも見据える島田選手。背番号「15」のユニフォームに袖を通し、まずは横浜での活躍を誓う。

泉スポセンに通った日々 

 島田選手の中学時代、横浜泉中央ボーイズのコーチとして指導した中岡真弥さん(33)は「背はすでに180cm近く、力はあった。まだまだ細くて、こんな速い球投げて大丈夫かって心配もしていました」と語る。

 身体づくりのため、一緒に泉スポーツセンターに通ってトレーニングで少しずつ筋肉をつけたり、「海まで連れて行ってもらって、砂浜を走ったりもしました」と島田選手。中3夏には139キロを叩き出した。

 中岡さんは自身の母校・横浜高校並みのトレーニングを課したが、「愚痴や不満は聞いたことがない。周りのお手本になるような選手でした」と評する。一方で、「実直だけど、生意気な一面もあるから周りにも愛されているんだと思います」とも。「苦労と苦難が多かったと思う。ぜひプロの世界でも図々しさというか、頼もしく活躍してほしい」とエールを送った。

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