1945(昭和20)年8月、日本は米・英・中が発したポツダム宣言を受諾し無条件降伏した。その後、米国を中心とする連合国軍が各地に進駐、横浜も例外ではなかった。
そんな中、疎開先の群馬から横浜に戻ってきた斉藤秋造さん=中区山手町=は当時3、4歳。中区伊勢佐木町のはずれにある住み慣れた我が家で、復員した父が故郷群馬の乾燥しいたけの販売を再開した。「セロハン袋に包んで飲食店などに卸していたんですよ」と物心ついたばかりの当時を懐かしむ。
伊勢佐木町界隈は、米軍が接収する建物が点在し、日常の中に米兵の姿があった。小学校に入学した49(昭和24)年ころからの記憶は鮮明で、まさに伊勢佐木町が「遊び場」だった。
日本の中の米国
通りを米兵が闊歩し、道端では空き缶を前に傷い軍人がアコーディオンを演奏、その横で中学生くらいの男の子が靴磨き。そんな風景が記憶に残る。また、接収後に米軍が伊勢佐木町の通りと並行して造った軽飛行場やいわゆるカマボコ兵舎、駅周辺に複数あった空き地、通称「関内牧場」なども当時の風景だ。
「まだ珍しかったパーマをかけた女性がよく米兵と腕を組んで歩いていました」と、子どもながらにその光景も目に焼き付いている。
南区との区境に流れていた富士見川には大量の避妊具が捨てられていたり、混沌とした異次元の世界が当時の斉藤少年にとっては日常だった。伊勢佐木町を巡回するMP(米陸軍の憲兵)は目にしたが、日本の警察は記憶にないという。「MPに追いかけられたパンパンガールがうちの店に逃げ込んだりしていましたよ」
パチンコ漬けの毎日
当時の小学校は、子どもが多いこともあり朝と昼の2部制。斉藤さんは朝と昼の登校を間違えたことをきっかけに、学校嫌いに。「不登校の走り」と伊勢佐木町界隈でパチンコ漬けの毎日を送る。「今思えば学校に行かなかったからこそ、伊勢佐木を隅々まで見て歩き、人一倍遊んだ」とはにかんだ。小学3年で中央卸売市場のある神奈川区へ転居、以後は真面目な小学生になったという。
52(昭和27)年の大さん橋接収解除を前後して、伊勢佐木町など横浜中心部から米兵の姿は消えていった。
横浜の気質がプラスに
日本人と米兵が入り乱れ共存していた伊勢佐木町は、斉藤さんにとって幼いころの原風景。「終戦直後の荒廃した中で自由を謳歌(おうか)していました。米国人に対して卑屈な感情はまったくなかった」という。「開国当時から外国文化を受け入れてきた横浜の気質がそう思わせたのかもしれない」と話す。
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