「土木事業者・吉田寅松」㉕ 鶴見の歴史よもやま話 鶴見出身・東洋のレセップス!? 文 鶴見歴史の会 齋藤美枝 ※文中敬称略
東京から人力車
徳川幕府によって江戸から日光までの街道は整備されていたが、鉄道開通まで、日光は交通至便の地ではなかった。
イザベラ・バードの『日本奥地紀行』によれば、明治十一年ごろの日本では、陸運会社と呼ばれる、東京に本社を置く陸地運送会社の支社が各地にあり、旅行者や一定の商品は一定の値段で馬や人足によって運送されていた。
道路状態や借りる馬の値段や人足によって値段が調整され、地方によっても違いがあったようだが、旅行者が難儀したり遅延したり、法外な値段を吹っ掛けられたりすることはなく、すばらしくよく運営されていたようだ。
イザベラ・バードは陸運会社を利用して、日本国内の西洋人がまだ足を踏み入れたことのない東北地方や北海道を旅行した。そのはじめとして、東京から三台の人力車を雇って、日光を訪れ、ヘボンに紹介された金谷カテッジインに宿泊した。
却下された鉄道建設願い
建築の粋を極めた陽明門、唐門、回廊・眠り猫、本殿など江戸幕府が総力を挙げて造営した壮麗豪奢な建物群や杉並木は、日光の人たちが誇りとする文化・宗教空間であるが、明治維新後は徳川家の特別の保護を失い、神仏分離、廃仏毀釈の荒波を受けて荒廃の危機にさらされていた。
明治十二年、栃木県の有識者らが中心となり、保晃会を組織し、日光山及び社寺堂宇の保護保存や外国人の避暑地・国際的な観光資源の開発に取り組んだ。大宮から日光までの鉄道建設も視野にあった。
現在のJR東北本線(当時は日本鉄道会社の奥州線)は、明治十八年に上野から宇都宮まで開通していて、上野駅を出た汽車は、四時間で宇都宮駅に到着した。しかし、宇都宮から日光までは、江戸時代と同じ駕籠か、人力車か徒歩で五時間を要した。
保晃会を中心に地元有志が立ち上がり、宇都宮駅から日光までの鉄道敷設を計画した。
明治十九年六月、渋沢栄一を創立委員長として日光鉄道会社を設立し、宇都宮・今市間の鉄道敷設を計画し、鉄道局に申請した。
しかし、鉄道局長の井上勝から軽便式鉄道であることや、季節により乗客や貨物の増減があり、小さな会社の短い路線では、工事費も割高になり、採算が合わないことなどを理由に却下された。あきらめきれない日光鉄道は、外国人技師を雇い、測量し設計図を書き機材の調達などをはじめたが、予想以上に経費がかさみ、計画を断念せざるを得なかった。
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