開幕以降、何かと話題になっている大阪・関西万博。横浜市でも2027年に「GREEN×EXPO2027」を控えるが、今から76年前の1949年、反町公園で開かれていた「博覧会」をご存知だろうか。
日本貿易博覧会
戦後、東日本で開かれた最初の博覧会となったのが「日本貿易博覧会」。占領下の日本で経済再建の中核となる貿易の産業振興を目的としてGHQの許可のもと開かれ「貿易博」「日貿博」などの名称で呼ばれた。
会期は1949年3月15日から6月15日までの3カ月間。今の神奈川区役所や反町公園周辺の反町会場、のちに野毛山動物園となる野毛山会場の2カ所で開催された。横浜市と神奈川県の共同主催。山下公園など横浜中心部は当時接収されていたため、反町などが会場になったという。
三角塔
太陽の塔や大屋根リングなど、博覧会にはシンボル的存在が付き物だが、日貿博のシンボルとなったのが反町会場の「三角塔」だ。高さ30mほどとみられ、貿易の3つの要素「輸入」「生産」「輸出」の文字が各面に記された。のちに横浜スタジアムや野毛の都橋商店街ビルを設計した市内出身の建築家・吉原慎一郎が手掛けた。
パビリオンも
反町会場にはほかにも、貿易館、外国館、産業館、芸能館、府県館などが置かれ、今の万博会場と変わらない雰囲気。日産やトヨタ、日立など企業のパビリオンもあった。海外業者と交渉する商談スペースもあったといい、商談会のような要素もあったとみられる。会期中は美空ひばりのショーや昭和天皇皇后両陛下が訪れるなど、大規模なものだったようだ。
「透明なピアノ」
現在反町に住む人の中には、当時来場した人も。7歳だった田邊恵将さんは「結構人がごった返していて、着物を着ていた人もいた記憶がある」。15歳だった遠藤明治さんは今の横浜銀行アイスアリーナのあたりにあった芸能館を訪れた記憶があるといい「当時では珍しい、プラスチックの透明なピアノがあったのを覚えている」と振り返った。
横浜みなと博物館=西区=では、横浜港の歴史や役割を紹介する常設展示の中で、日貿博について紹介している。学芸員の奥津憲聖さんは「明るい話題が少ない中で、復興への機運を作る博覧会となったのでは」と日貿博の役割を推察する。
入場券は100円で、3カ月間で360万人が入場。しかし半額の団体入場者が多く、最終的には約9500万円の赤字となった。反町会場はその後、市役所の仮庁舎が移設。関内の庁舎完成後は反町公園として整備され、当初はジェットコースターやプールなどが設置されたが、今は憩いの場となっている。
![]() 反町会場にあった神奈川館(横浜市史資料室所蔵)
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![]() 横浜みなと博物館学芸員の奥津憲聖さん
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