高津物語 連載第八五四回 「杉田玄白の出身地」
享保二〇年(一七二一)八大将軍吉宗が洋書輸入禁緩和策を打ち出して、洋学(蘭学)研究は飛躍的に進歩した。
杉田玄白・前野良沢らの血のにじむ努力によって我が国初の翻訳本『解体新書』四巻が刊行され、医学界を震え上がらせて以降のことである。
若狭国小浜藩の藩医杉田玄甫の子で、江戸生まれオランダ外科医学を研究、江戸南千住小塚原刑場回向院―今はJR常磐線・南千住駅とJR貨物線隅田川貨物駅と地下鉄日比谷線・南千住駅の三種類の線路で分断され、その線路の下に江戸時代、二十万人の死体が組み敷かれていた。
「幕府も諸侯も、もはや酔人である」と言い放った二十九才の吉田松陰も、日本橋伝馬町の牢屋敷で殺され、小塚原に葬られた。
また大阪で洋学と医学を学び、藩主松平慶永に認められて藩医となり、江戸に出て将軍後継問題に際し、一橋慶喜擁立運動に参加、安政の大獄で処刑された橋本佐内・二五才も此処だ。
頼山陽の息子で反幕思想を練り上げた頼三樹三郎・三十四才も此処に眠る。
明和八年(一七七一)友人の前野良沢と小塚原刑場で、刑死体解剖を見、持参したオランダの解剖書『ターヘル・アナトミア』の掲載図と実物がそっくり符合するのに驚嘆した。
この時、杉田玄白は八十三才、現代で言う「後期高齢者」だと云う。全くもって驚嘆至極である。
こうしてオランダ人通詞の援助を得て「腑分け」実習を行い、四年の歳月を掛けて、『ターヘル・アナトミア』の翻訳を完成した。
こうして安永三年(一七七四)に『解体新書』という名で、出版した。
明治二年、福沢諭吉の手によって初めて人々はこの書物に触れることが出来た。
幕末から明治にかけて、ある時には権力に抵抗し、文明の啓蒙につとめ、先駆者の苦しみを嘗めた福沢にとって、先駆者の辛苦は人知れず尊く、そして孤独が常だ。手掛けた福沢も「之を詠む毎に…感涙に咽びて無言に終わるの常なりき」と、書き残す杉田玄白が溝口西方四キロ宮前区菅生の出身という。
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