高津物語 連載第九三一回 「南武線津田山駅」
『たかつーひとまち記憶―交通が町を変える』に昭和十六年に「日本ヒューム管前駅(現津田山駅)が開業」昭和十九年に「南武鉄道が日本国有鉄道に買収」され「日本ヒューム管前駅」が「津田山駅」、「久地梅林駅」が「久地駅」に改称されたとある。
その南武線が『川崎の歩み―写真で見る明治・大正・昭和』(昭和六十一年三月、川崎市市民局広報課編・神奈川新聞社)に第三十三回全国高等学校選抜野球大会で法政二高が、前年夏の大会に続いて夏春連続全国優勝した記事と前後して、南武線の二重衝突事故を写真と共に載せている
昭和三十七年八月七日、南武線電車が久地―津田山駅間の無人踏切で警報機も遮断機もない。傍らに「左右注意」と書かれた黄色い標識がある。トラックと衝突。「ドスン。鈍い音。途端に下り電車は浮き上がって上り線にたたきつけられるように横転した」(東京新聞、昭和三十七年八月八日朝刊)。
傾いた下り電車に上り電車が突っ込み、一両が転覆、二両が脱線、電車の運転士ら三人が死亡、重軽傷―百五十四人を出した。
昭和三十二年十一月に「南武線川崎―登戸間一部四両編成運転を開始し、費用が一億三千六百万円を要した」「昭和三五年三月―武蔵溝ノ口―津田山間、久地―宿河原間、複線運転を開始」され、同年四月には「矢向電車区が廃止され、中原電車区が設置され、同年十一月には南武線の一部で六両編成の運転が開始される」等数々の乗客サ―ビスが開始された矢先の事故だった。
大洪水後の土地整理もままならず、水路をそのまま線路に改造した。
久地駅からの大きなカーブで見通しが悪く、平瀬川が氾濫して台風シーズンには何時も津田山駅は、冠水し、登戸駅と武蔵溝ノ口駅でそれぞれ折り返し運転が行われた。鹿島田―菅線の県道整備、府中県道の整備、国道二四六号線の拡幅工事、東名高速道路の開通等、様々な改良工事が続いた。
それにも拘らず、昔を知る者には基本的に、何も変わっていない様に見える。 老人の偏見であればいいのだが、極めて心配である。
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