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高津区 コラム

公開日:2017.11.03

連載第一〇一九回
高津物語
「三軒茶屋」

 溝口で田園都市線上り渋谷行き急行電車に乗ると、次の停車駅は「二子玉川」に止まる。「二子玉川園」はその昔玉川電車の「二子玉川遊園地駅」があった関係で、付けられた駅名である。読売新聞社が経営していたので「読売二子玉川遊園地」とも言った。



 「二子玉川」の次には、「三軒茶屋」に止まる。



 大山街道が三軒茶屋で新旧合流する。三叉路に出来た名の起こりは三軒の茶屋、「信楽」「角屋」「田中屋」が、元禄年間(十七世紀〜十八世紀)頃にあった事から生まれた。



 旧大山道の道標は、新玉川線階段口に立っている。



 (三軒茶屋は私が幼児の頃、中耳炎の手術で、入院した思い出の場所である。)



 世田谷通りを左折すると、道は、北条氏政の命令で、吉良家の重臣大場信久が、天正初年(一五七三)、現在の代官通りに移って来て、代官屋敷を造った。



 直角に曲がる中世独特のクランク型の道にして、世田谷新宿と言った。



 次いで北条氏政は、世田谷の城下町の発展を願って、一と六の日に楽市を行うことを許した。



 が天正十八年(一五九〇)小田原落城と共に禁止され、後に年一回の歳の市だけが行われるようになった。



 この頃、江戸中期頃から農家では農閑期の現金収入の手段として、草鞋(わらじ)や草履(ぞうり)に襤褸(ぼろ)を詰め込んで売った。草鞋用や、作業着の補修用の襤褸が大量に売られたため、「ボロ市」の名がついた(『世田谷の古道』世田谷区教育委員会)。



 明治になって、一月十五日、十六日にも市が開かれるようになり、現在の二回開催となっている。



 大蔵に住んだ徳富蘆花は『ミミズのたわごと』で、「世田谷のボロ市は見ものである。松蔭神社入り口から世田谷の上宿下宿を打通して、約一里の間は…」とボロ市の事を書いている。



 往時、ボロ市のために、往来の家は三尺下がって建てられたと言い、忠実に守った「蕎麦屋さん」と実見した。三軒茶屋から「襤褸市通り」まで興味は尽きない。必見である。

 

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