連載第一〇四七回「梶ヶ谷を歩く」 高津物語
高津のまちに生まれ育って、八二年目を迎えた油断があり、今現在の「まちの様子」を知らない、判らないことが多すぎることを知らされた。他でもない、まち歩きに参加しての率直な感想である。
過日、大山街道ふるさと館主催のふるさと町歩きに初めて参加して、大変勉強させていただいた。
集合場所は田園都市梶が谷駅だった。集合して「ねもじり坂」方面に歩いて坂上を左に入った。昭和二〇年四月四日、笹の原の空襲に触れることも無く左折した。日本光学溝口工場を狙った空襲で岩崎昭八才他二二名の「戦災供養地蔵菩薩立像が建っているが、触れずに左折、笹の原の一部は戦前は、吾が家の茶畑、今は家々が建並ぶが十代の頃、薩摩芋を耕作していた頃を思い出した。
今は国道二四六が通るが、斜面を利用した畑は、富士の霊峰を遠望する素晴らしい眺望だった。当時私は小学校高学年で兄たちは中学生だった。
慣れない畑仕事だったが、今は懐かしい思い出だけが残っているが、懐かしい場所も黙々と通り過ぎ、国道二四六に出て身代り不動尊に行く。誰も知らない私だけの八〇年近い遠い思い出を、私は「まち歩き」の一人として歩いてきた。
九歳の時、目撃した木所さんの門の上の欅に引っかかった着物と肉片を今も鮮やかに脳裏に残っているし、高津郵便局の裏が池で、爆弾が落下して軟弱な土地に埋もれ、戦後自衛隊の処理隊が出動して、不発弾の処理をした事を思い出し、今更と思った「まち歩き」が私を「旧き戦争時代の高津」に連れ戻してくれた。これからも建康の為、多いに歩きたいと思う。
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