連載第一〇七二回「平賀栄治【1】」 高津物語
私の尊敬して止まない「平賀栄治」の研究発表を「多摩図書館」で行うに際して、私は、様々な事前調査を行って調べ物をした。その中で、平賀栄治が東京農業大学農業土木科を卒業し、恩師上野栄三郎先生(忠犬ハチ公の御主人である)に認められて、当時の宮内省帝室林野管理局に勤務を経て、北海道釧路地方開拓地の弟子屈村(てしかがむら)で設計技師補として開拓事業に従事した。平賀栄治の赴任の目的は、空知川に新運河開削する事や石狩川左岸一帯の水田開拓事業等の難工事に全精力を傾けて仕事に打ち込むことだった。当時、東京の本省から調査官の来道と言えば、北海道の地元では、江戸時代からの大名行列扱いであったと、今でも語り草が残っている程だった。なのに、平賀栄治は、質素な小屋に住み、先輩の指導を受け、北海道原野の測量調査に従事、ただ黙々と、理想とする、必要な調査にのみ邁進する日々を送り続けていた。というのも平賀栄治は本省のホワイト・カラー族とは一線を画し、「野に咲け月見草」を実践する野人技師の一人だった。北海道赴任が決まると「寒冷地の人は酒の為、一生を誤る例が多い」と主張する実父との約束で、「北海道滞在中は、一滴の酒を飲まない」の条件付きで直ちに北海道赴任快諾の旨、返電した」と赴任動機を語っている。明治二八年(一八九五)二十五歳の國木田独歩は、結婚したばかりの新妻、佐々木信子と同年九月、北海道空知川に向かい、翌年帰京している。ロマンチストの独歩の事だから、北海道開拓でもしようと思い空知地方に出向いたのであろう。だが現実は、彼の想像以上に厳しいものであり、この北海道行きで佐々木信子との新婚生活は、破堤する。
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