戻る

高津区 コラム

公開日:2019.10.04

郷土史には記録されない、たかつの記憶をたどる
まちのこぼれ話
第5話 その3 山田 義太郎さん

◆戦争のこと2



 サツマイモの室(むろ)を防空壕にして入っていましたよ。15、16人は入れる広さだったね。終戦は14歳の時でした。もう少し戦争が続いていたら私も徴兵されていたんでしょうねえ。



 玉音放送は家族そろって自宅で聞きました。でも言葉が難しくてよく理解できなかったですよ。戦後になってから浅草の方まで墜落機を見に行ったんですよ。B29って細長くてものすごく大きいんだよ。本当にすごい。



◆家業のこと



 私は長男だったから、父の手伝いで農業をやらされていました。弟たちは鳩を飼って伝書鳩のコンクールに出場したり、楽しそうに遊んでいましたよ(笑)。でも私はずっと手伝い(笑)。出荷はリヤカーを引いて五反田の市場まで売りに行きました。目黒川を越えて、片道2時間くらい。子母口や武蔵小杉、千年にも行っていました。私は、子どものころから働くばっかりで、遊んだっていう記憶がないです。



◆農業から造園業へ



 昭和30年頃から東急が土地を買い占めて団地ができ始めました。その時に蟹ヶ谷の方にあった畑を売りました。農業には見切りをつけて、植木の仕事をするようになりました。弟たちは皆サラリーマンになりました。私は植物の世話をするのが好きでしたからね。植木屋というよりは造園が主です。庭師ですね。昭和49年には造園1級の資格も取りました。

 

    ピックアップ

    すべて見る

    意見広告・議会報告

    すべて見る

    高津区 コラムの新着記事

    高津区 コラムの記事を検索

    コラム

    コラム一覧

    求人特集

    • LINE
    • X
    • Facebook
    • youtube
    • RSS