郷土史には記録されない、たかつの記憶をたどる まちのこぼれ話 第13話 その4 斉藤 二郎さん
◆戦争中の思い出
終戦間際の空襲、昭和20年の春にこの辺りも空襲があり私の生家も流れてきた破片で別棟にあったお風呂場の屋根が2カ所ほど抜けました。空襲警報が鳴ると皆、家の防空壕に入りました。防空壕は皆1軒1軒作っていました、中でも生活できるようにして、サイレンが鳴れば入っていました。
夜、空からアメリカの飛行機が真っ赤な焼夷弾を落とすのも見ました。真上に落とされたのは皆流されて、この辺りには落ちては来ませんでした。軍事施設を狙っていたのでしょうね。
戦争が激しくなると高津小学校は閉鎖され、子どもたちは集団疎開か縁故疎開をすることになりました。私は4番目の姉が、生田小学校の裁縫の先生をやっていた縁で、自宅から通える縁故疎開にしてもらいました。本当はいけないのですよ、でも学校は閉鎖しているから、自宅から生田まで通っていました。
兄貴は、その当時もう中学校に行っておりましたから、小学校へはひとりで通っていました。そのころ、中学生は学徒動員。兄は現在の大田区鵜の木に東京中学校(現:東京高等学校)に通っていましたが、勤労奉仕で学校の周辺、蒲田にある民家を壊しに行っていました。軍事工場だった三菱重工業の工場が鵜の木駅の一つ先、下丸子にあったので、空襲による被害から守るため、民家の取りこわし作業に生徒が動員されていました。
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