黒川の菩提所として1400年ごろに開創された「雲長山 西光寺」。戦時中、学童疎開の宿舎となっていた。19代目の山中聡英住職(57)は11年前から毎年、市立はるひ野中学校の総合学習の時間に、学童疎開のようすなどを紹介し、「平和とは何か」を生徒たちに問いかける授業を行っている。
戦時中、大島国民学校(現・大島小学校、川崎区)の3年生から6年生までの150人の子どもたちが、麻生区(当時の柿生)の6寺に学童疎開していた。西光寺で受け入れていたのは、5年生の男子児童23人。全員本堂で寝泊まりをし、授業は行わずに掃除や炊事などの生活を送っていた。終戦の年の11月ごろに疎開が解除されるまで、同寺での生活を余儀なくされたという。
「あんな思い二度と」
山中住職が、はるひ野中で話すきっかけとなったのは、終戦から50年後の1995年、同寺に疎開していた男性2人が訪れた際に伝えられた言葉だった。男性たちによると、親元を離れての疎開生活で、ホームシックで夜になると泣いていた子どももいた。その中で、配給制で食糧難だった時代に、近くの畑から取れた野菜を振舞ってくれたことなどの感謝を伝えに節目の年に訪れたのだという。「戦争は良いことが何もない。あんな思いを二度としたくない。ぜひお寺として、この思いを次代に伝えていってほしい」と涙ながらに託された。「強く印象に残っている。ぜひ語り継いでいこうと思った」と山中住職。
話をするからには調べてからと、当時を知る親戚に話を聞いて回り、資料集めに奔走した。2010年に、同寺で学童疎開を受け入れていたことを知った、はるひ野中から、平和教育の一環として話をしてほしいと依頼を受けた。
「平和とは」何か
授業では毎年、戦前からの歴史の流れとともに、黒川村のようすなどを踏まえながら、学童疎開や、子どもたちの生活を紹介。黒川にあった照空隊の基地、地域の戦争犠牲者についてもふれ、戦争についてどう思うか、平和とは何かを投げかけるようにしている。山中住職は「想像することが大事。話し出した当初は、関心が低かったように感じるが、年々質問も増えて学ぼうという意欲がある子どもが増えてきている」と話す。
「あの時の出会いがなければ、今子どもたちに話をしていない。自分にとっても、こうした機会を与えてもらってありがたい」と山中住職。続けて「平和は自分たちでつくって守っていくもの。経験者が少なくなっている中で、風化させないためにも、これからも伝え続けていきたい」。平和の語り部としての活動は続く。
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