「戦争はすべてを破壊する悲惨なもの。それを伝えていきたい」。そう話すのは、区内高石在住の小脇貞子さん(84)。広島市の北部にある可部町出身の小脇さんは、8歳の時に広島の原爆で被爆した。
小脇さんは、1945年当時、母、4歳離れた姉と可部町で暮らしていた。父親は軍に入隊し外地に赴いていたが、けがの影響で広島県東部の福山の連隊に移ることになり、家族も福山の山の手に移り住んだ。
この頃、すでに戦局は悪化。国内では空襲が相次ぎ、福山にも軍需工場があったため、米軍の標的になった。「空襲でまちが燃えてね。よく覚えていますよ。山を登って多くの人が家の方に避難してきていました」
迎えた8月6日。いつもと変わらない朝だった。昼頃に「広島市内が焼けた」という情報が入ってきた。「あの時は原爆だとはわかっていなくて、威力の強い焼夷弾が落とされたんだろうと思っていました」。時間の経過とともに凄惨な状況が伝わってきた。夕方になって動いたのが母親だった。可部町にある自宅を心配し、戻ろうと準備を進めた。
「何もなくなった」
出発したのは4日ほど経ってから。電車で広島駅をめざしたが、その手前で降ろされ、歩いて向かった。この行動が小脇さんたちの運命を分けた。「入市被爆」。被爆地に残留する放射能を浴びる形になった。「後からわかった話なんですけどね」と当時を語る。
広島駅に近づくにつれ、知っていた風景が一変。家という家、建物という建物が、がれきになり、生活している人が見当たらない。市内中心部の親戚宅を探したが無残な焼け跡だけ。「何もなくて、ずーっと周りが見渡せるの。これは大変だと思って」。幼な心にはそう感じるだけで、悲壮感を感じる余裕もなく、母親についていくのに精いっぱいだった。
それからというもの、一部運航していた可部線(電車)や、大八車を乗り継いで、自宅まで帰った。やっとの思いで着くと、見ず知らずの人たちが自分たちの家で生活していた。「びっくりしましたよ。避難してきた3所帯の家族がいたんです」。一間を開けてもらい、共同生活が始まった。福山の時とは異なり、不自由なことばかり。「いろいろなことがあった。炊事や、お風呂も交代で。助け合うしかなかったんです」
8月15日の玉音放送は、近所の大人数で聞いた。「音も良くなかったし意味がわからなくて。大人が戦争は終わったと言っていたけど、ピンと来なかった。だって、戦争のない生活がどういうものかわからないから」
母の偉大さ
終戦後、悩まされたのが食糧不足。戦中は配給制だったものの、福山では父親の仲間が何かしらを持って来てくれていたため、そこまで困らなかった。何とかして食料をと、母親は方々尽くして畑を作り、野菜を植えてみんなで分けて食べた。思い出に残っているのがあんパンだ。「畑で採れた小麦をパン屋であんパンに取り換えてもらうんです。とにかくおいしかったですね」と目を細める。
小脇さんが後になって感じたのは、そうした母親の偉大さだ。「当時30歳を過ぎたばかり。子どもを2人連れて可部に帰ったり、その後の共同生活も畑仕事も。東京の女学校を出たお嬢様だったのに。私だったらできない。すごい人だったと思いますね」
その後、共同生活していた人たちは、家を出ていき、小脇さん自身も学校を卒業後、地元出身の夫と結婚し上京。40年前に麻生区に転居。その頃から始めた朗読をライフワークとしてきた。
思いを朗読で
上京してから体調に変化が出始め、次々と大病を患った。姉や母も同様だった。「原爆の影響かも知れないですけど、結び付けて考えてはいません。母も102歳まで生きしましたし、私も元気に過ごしていますから」と気丈にふるまう。
10年程前、被爆者の会「川崎市折鶴の会」に誘われて入会した。「みんなで集まって鶴を折って、会長の森政忠雄さんの講演活動を手伝ったりするのが楽しくて」
9月26日(日)に「平和を願う会」が主催するイベント「平和へのバトン」で、被爆者・和久井和子さんの手記をもとにした朗読劇に出演する。「戦争は何もかも破壊し、今までのことを全部なくす悲惨なもの。せっかく生まれてきた命、幸せを壊すことがないように伝えていきたい」。平和の尊さを次世代へ語り継ぐ。
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