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麻生区 コラム

公開日:2022.02.11

柿生文化を読む
シリーズ「鶴見川流域の中世」中世史料・資料の隠れた宝庫 恩田郷(その3)【3】文:中西望介(戦国史研究会会員・都筑橘樹研究会員)

  • 図版 武蔵国留守所代連署書状 早稲田大学図書館所蔵

 恩田兵衛太郎は武蔵国留守所代連署書状に記された恩田殿と同一人物あるいは一族であろう。また、建治元年(1278)六条八幡宮造営注文にみえる恩田太郎跡も一族と考えられる。恩田氏は金沢北条氏の屋敷に詰めて来訪者からの伝言や手紙や進物を取り次ぐ役割を果たしていることから、金沢北条氏の家政を担う被官(家人)であろう。恩田氏が武蔵国留守所代連署書状を日頃から関係の深い幕府中枢にある金沢北条家に持ち込んで援助を頼んだのか、堤の修固を終えて用済みとなった書状の裏を再利用する目的で持ち込んだのかのいずれかであろう。



 ちなみに金沢北条氏の被官としては『徒然草』の作者兼好法師と兄弟と想定された倉栖兼雄が有名であるが、その後の研究でこの二人は兄弟ではないことが明らかにされている。



 恩田町に所在する徳恩寺は王禅寺・東光院・三会寺などと共に多くの末寺を持つ有力な真言宗寺院である。等海上人は「律家之碩徳」といわれ初め金沢稱名寺に住い、後に恩田延命院に居し建武二年(1335)に徳恩寺を開いている。等海の弟子鎮海は王禅寺花蔵院と号し、長海は岡上東光院を開いている(「三宝院伝法血脈」)。鎌倉幕府が滅亡すると稱名寺の学僧達は地方寺院に進出して布教活動を行っている。等海上人が恩田郷に徳恩寺を開く背景には、先に見たように鎌倉時代後期には恩田郷は恩田氏を仲介して金沢北条氏や稱名寺と密接な関係が結ばれていたからであろう。



(つづく)

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