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麻生区 コラム

公開日:2022.04.01

柿生文化を読む
シリーズ「鶴見川流域の中世」稲毛重成の人物像にせまる(その1)【3】文:中西望介(戦国史研究会会員・都筑橘樹研究会員)

  • 図 秩父氏・稲毛氏関係略図『川崎市史通史編』より転載

 重成が『吾妻鏡』に初めて登場するのは先にあげた養和元(1181)四月二十日の、平弘貞の所領である吉富郷と一宮蓮光寺を自分の所領と偽って申告し、頼朝の怒りに触れて篭居した記事であるが、『吾妻鏡』ではこれ以前の重成に関する記事はまったく出てこないのも不思議である。治承四年(1180)八月に源頼朝が伊豆に挙兵すると従弟の畠山重忠をはじめ秩父平氏の河越重頼、中山重実、江戸重長やその他の武蔵党々の武士達もこぞって平家方に立って源頼朝の討伐軍に参加しているが、重成の動きは『吾妻鏡』に記されていない。ところが『延慶本平家物語』を読むと石橋合戦で源頼朝軍を打ち負かした大庭景親率いる平家方の軍勢のなかに稲毛重成の名前が記されている。父である小山田有重は平家家人として大番役を務めるために在京いている事もあり、重成が平家方の軍勢として戦っている事は十分にありえることである。『吾妻鏡』の編者は意図的に養和元(1181)四月二十日以前の重成の記事を載せなかった可能性も考えられる。そうすることで読み手に稲毛重成は虚偽の申告をする腹黒い人物という印象を与える効果を狙ったのであろう。



(つづく)

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