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麻生区 コラム

公開日:2022.07.08

柿生文化を読む
シリーズ「草創期の柿生中学校」校舎は何処に?【1】文:小林基男(柿生郷土資料館専門委員)

  • 小学校側からみた柿生中学校の校舎建設予定地。この山を人海戦術で整地した

 GHQの強い指導の下、6年制の小学校の卒業生が全員入学する事となった新制中学校が、1947(昭和22)年開校と決まったのは、1946(昭和21)年8月のことでした。それから間もなく、実際の開校は、4月ではなく5月で良いことになったのですが、開校までの日限は僅かに8ヶ月しかなかったのです。それからが大変です。校長も含めて先生方も決まっていない上に、現在のような教育委員会制度もまだありません。上は文部省から下は川崎市の教育担当部局まで、何処も旧来の国家主義に基づく教育を完全に排除して、個人の尊重に基づく民主的教育の徹底を求めGHQの要求受け入れに忙殺され、学校建築については、度重なる空襲で焼失してしまった小学校などの仮校舎の建設に優先的に取り組むのが精いっぱいだったのです。当時純農村地帯だった多摩・麻生地域では、焼失した学校はなかったのですが、工業都市川崎は、横浜市や軍港を持つ横須賀市と並んで、空襲の被害は大きく、小学校の大部分が焼失していたのです。



 そんなわけですから、ひどい話なのですが、校地を何処にするか、校舎はどうするのかといった大問題は、全て地元に丸投げされたのです。その上部落会や町内会といった、かつての農村共同体を引き継いだ住民の自治組織も、末端で軍国主義を支えた機関として、GHQによって解散させられていたのです。ですから、全てが手探りでした。なにしろ70年前の話です。当時1期生や2期生として、新設の柿生中学校に生徒として在籍した方々でも、既に80代の前半になられています。当然、新設の柿生中学校の校舎建設の先頭に立って、汗を流された皆様は、皆鬼籍に入られています。ここでは、そうした皆様が、かつて断片的にお話しになられた事を繋ぎ合わせながら、当時の様子を記すことにします。    (つづく)

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