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麻生区 コラム

公開日:2022.09.23

柿生文化を読む
シリーズ「草創期の柿生中学校」教科書はあったのか?【2】文:小林基男(柿生郷土資料館専門委員)

  • 初年度の理科教科書

  • 同じく社会科教科書

 ということは、教科書作成の指針となる学習指導要領が、早くに発表されないと教科書を作成することができないことになります。ところが肝腎の学習指導要領が「試案」という形で発表されたのは、昭和22(1947)年の3月に入ってのことだったのです。当然、民間で編集・作成する教科書は、5月のスタートに間に合いません。GHQもさすがにこれはまずいと思ったのでしょう。民間編集の教科書が発行されるまでの2ないし3カ年は、文部省が教科書を作りなさいと言ってきたのです。



新制中学校のスタート時に、すべての教科書が揃うことなど、とても期待できる状況ではなかったのです。教科書作成の指針が間に合わなかったのですから当然です。尤も当時の紙不足を考え合わせると、指針が間に合ったとしても、全国の中学1、2年生全員に提供できるだけの冊数を用意することは無理だったでしょうから、教科書の不足は予定の行動だったのかもしれません。



(つづく)



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