麻生区 コラム
公開日:2022.11.04
柿生文化を読む
シリーズ「草創期の柿生中学校」校舎の建設【1】文:小林基男(柿生郷土資料館専門委員)
始めに、少しだけ教科書の話を捕捉させてください。教科書は一部しかなかったと前号に書きました。こう書くと60歳くらいまでの方は驚かれると思うのですが、当時教科書は、保護者がお金を出して購入していたのです。学校の指定日に本屋さんが学校に来てくれて、お金と引き換えに教科書を渡してくれるのです。教科書の無償配布が始まるのは、1962(昭和37)年秋の教科書無償法の成立を待って、まず63年度に小学校の新1年生から始まり、東京オリンピックの行われた64年度には3年生まで、そして65年度に5年生までとなり、66(昭和41)年度にようやく小学生全員の教科書が無償配布となったのです。中学生については、その翌年67年から3年間をかけ、学年進行で無償化されました。ですから、貧しい家庭ではなかなか教科書が買えず、兄や姉の教科書を下の子が使うことも珍しくなかったのです。新制の中学校では、兄や姉の教科書なんてありませんから、この点は余計に大変だったようです。
以前に記したように、柿生中学校は柿生小学校から4教室を借り受けてスタートしました。小学校もかなりの不自由を忍んで、無理をして貸してくれたのですから、これ以上の借用はできるはずがありません。しかし、1年が過ぎ48(昭和23)年度に入ると、新しい1年生が入ってきます。入学者は130名に達しましたから、当然3クラスになります。この3教室分が足りないのです。幸い廃止となった青年学校の校舎が利用できることになり、下麻生の公民館をも借用して、まるで寺子屋のようだと言いあいながら、授業を受けることもあったようです。
(つづく)
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