戻る

麻生区 コラム

公開日:2022.12.09

柿生文化を読む
シリーズ「草創期の柿生中学校」卒業生の進路〜就職難と金の卵〜【3】文:小林基男(柿生郷土史料館専門委員)

 今と違って、中学生は既にして家業を手伝う労働力として期待されており、生徒たちもそのことをしっかり自覚していたのです。卒業後に高等学校に進学できるのは、暮らしに余裕のある一部の生徒にとどまっていたのです。当時農村地帯では、田植えと収穫の時期に農繁期休業があり、家が農家の生徒たちは、皆戦力として農作業に駆り出されたのですが、非農家の生徒たちもまた、保育実習の一助として、岡上から始まった農繁期託児所の手伝いをして喜ばれていたのです(橘川操先生談)。

 朝鮮戦争が神風となって、日本経済は回復に向かい始め、やがて大企業も中小企業も、中学校の卒業生を競って雇用しようとし始めます。その結果、中卒の求職者に対する求人倍率は、昭和30年には、1・64倍と1倍を大きく超え、中卒者は「金の卵」と称されて、争奪戦の的となってゆきます。就職担当の先生が、就職希望者全員に職場を確保するために苦労した時代は、過去のものとなったのですが、高等学校進学者が初めて50%の壁を越えたのは、昭和35(1960)年3月卒業の十二期生からでした。日本経済が離陸期を迎え、高度経済成長の波に乗り、中産階級が次第に厚みを増し、柿中卒業生も7割以上が進学するようになるのは、5割を超えて僅か3年後の38(1963)年3月の卒業生からでした。ただ、この時期の大学への進学率は、なお10%程度にとどまっていたのです。

(つづく)

    • LINE
    • X
    • Facebook
    • youtube
    • RSS