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麻生区 社会

公開日:2023.08.11

終戦から78年
岡上にも焼夷弾「衝撃今も」
戦中の地元 宮野薫さんに聞く

  • 戦中の岡上の様子を語る宮野さん

無謀な戦争

 「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び…」。8月15日の玉音放送を実家で聞いた78年前。「あの言葉はいまだに耳に残っている。何を言っているのかはよく分からなかったけど、大人が戦争に負けたと言っていた。負けたのに、まだ頑張らないといけないのかと思いましたね」。そう目を細めるのは、岡上在住の宮野薫さん(93)だ。

 昭和4年(1929年)生まれの宮野さん。代々、岡上で続く農家で生まれ育った。昭和11年に、当時、村に一つしかなかった義(よし)胤(たね)尋常高等小学校(現・柿生小学校)に入学。昭和16年の真珠湾攻撃の際は小学6年生だった。「新聞で知ったときは感動したし、学校でも先生が興奮していた」と当時を振り返る。その年に校名が、川崎市立柿生国民学校に変わり、第1期の卒業生になった。「勝ち戦の良いニュースばかりを目にしていたけど、今振り返ると無謀な戦争だったのか」と口にする。

 当時の岡上の世帯数は約70軒。そのうち60軒は農家だった。戦争が始まると、岡上から出征する人も。岡上神社に集まり、あいさつ。柿生駅まで行列をつくって見送りに行った。「王禅寺の方から出征する人たちは、青年団が鼓笛隊をつくって盛大に見送っていた。だからちょっと引け目を感じたこともあった」と当時を振り返る。

 宮野さんは、昭和17年に相原農蚕学校(現・県立相原高校)に入学。2年生のころから、授業を受けずに勤労動員に出ることが多かった。「いろいろな所に行かされたけど、最後は農家に配属された。でも、授業を受けていないのに、授業料を払うのはおかしいとは思っていましたけど」と苦笑する。相模原の造兵廠(現・相模総合補給廠)で、昼食に雑炊を食べさせてくれたことも。「当時は腹を空かせていたからうまかった」。敷地内のプールで泳がせてもらったことも良い思い出だ。当時、プールに入ったことはなく、泳ぐ場所といえば鶴見川。「プールで泳ぐとうまく泳げない。川の流れのおかげで、うまく泳げてたんじゃないかってみんなで笑っていましたね」と笑顔を見せる。

岡上に焼夷弾

 威勢の良いニュースが飛び交っていた中でも、戦局は徐々に悪化。昭和19年には、宮野さんの家にも縁故疎開で東京の下町に住んでいた親戚の子ども3人を受け入れることに。米と野菜を作っていたため、食べ物に困ることはなかったものの、白米を口にすることは滅多になかった。食べても米3、麦7の割合の食事で、芋が中心だったという。学校では女の子が弁当を新聞紙で隠して食べていた。「麦飯に梅干しが載っている『日の丸弁当』を恥ずかしがっていたんですよ」

 柿生駅の南の高台には、防空監視所が立てられ、地域の青年団の人たちが飛んでくる飛行機を見ていた。昭和20年5月25日、山の手や新宿方面が空襲に遭った日、B29の編隊を自宅の下の畑で見ていた。夜間は3千メートル程を飛ぶ編隊が探照灯に照らされ、機影や対空砲火などがはっきり見えた。編隊が終わりに近付いたころ、遅れていた1機が探照灯に照らされ、頭上近くに来たときに光った。「焼夷弾だ」と思い、その場で伏せた。轟音と共に、焼夷弾が落ちてきた。伏せたすぐ脇に焼夷弾が刺さり、その衝撃で体が浮きあがった。「あの感覚はいまだに覚えていますね」と振り返る。起き上がってみると、川向こう(鶴川)の民家に直撃し、燃えていた。後で聞いたところによると、隣家では、母屋の2階に不発弾が落ちていたそうで、さらに隣では土蔵に焼夷弾が落ちたものの、俵の中で自然沈下して事なきを得たという。

戦争は悲惨 

 玉音放送を家族と聞いた後、近隣の友人のところに行くと、疎開していた国士風の人が「日本は負けたぞ!」と怒ったような口調で言っていたのでそうなのかと感じた。しばらくすると、上空で零戦が2、3機狂ったように低空で旋回していた。次の日、勤労動員で通っていた稲田登戸駅(現・向ヶ丘遊園駅)に行くと、改札口で厚木航空隊の人がいて「日本は負けたんじゃない。厚木航空隊は戦うぞ」と叫んでビラをまいていた。

 重苦しい空気から開放されて灯火管制もなくなり、配給制ながら物はだんだん出回るようになっていった。

 「やるなら勝たなければいけない戦争だったと思う。とはいえ、戦争は悲惨なもの。絶対にしてはダメ」。それが今も変わらぬ思いだ。

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