1945年8月15日の終戦の日から今年で75年。戦中を知る相模原の人々に当時を振り返ってもらい、絶対に風化することのないよう継承するとともに、戦争で亡くなった人々に「平和の誓い」を表すことで改めて現代を生きる私たちへの警鐘とする機会とします。
横浜市で生まれ、5歳の時に水郷田名にある「割烹旅館旭屋」に養女として迎えられて移り住み、幼少期を過ごした。田名小学校を卒業し、上溝高等女学校に入学。「女学校の体育祭で踊るダンスに憧れて入学したの」と笑顔で回想するが、戦争が始まると造兵廠(現在の相模総合補給廠)に動員される。「戦争に使う何かの部品を作ってたと思う。『学校に行かずに働きなさい』が当たり前で、自分の好きなことがしたいとかは考えてなかった」
軍属の宿泊所に
戦火が広がり出すと、世間では「贅沢は敵だ」とうたわれるようになり、それまで旭屋では日常だった芸者が舞い踊り盛り上がる、華やかな宴会の風景が次第に影をひそめていく。代わりに利用客としてやってきたのは愛川町にある陸軍中津飛行場の軍属たちだった。彼らの食事のために毎晩米を研ぎ、翌朝は三升釜で炊いて準備する日々を送った。
軍属たちが旭屋を出発する時、「もう帰って来られないかも」とこぼす人も少なくなかった。「奥さんや家族を旭屋に呼んで最後に会わせてあげてた。それでもその日帰ってきた時には大祝いだった」
戦争がさらに激しさを増すと、生まれ故郷の横浜から祖父をはじめ多くの人が田名に疎開してきた。終戦間近の1945年8月2日に起こった八王子空襲では被害にはあわなかったものの、火の粉に覆われた空が広がっていたことを今も鮮明に覚えている。空襲から逃げるにしても、水郷田名は川に近い地形の影響で防空壕が掘れなかったため、空襲警報が響くと桑の木の根元に逃げ込んでうずくまった。「今思えば恐ろしい出来事」と振り返るも「(当時は)疑問に思っていなかったから、負ける前も負けた後も怖さを知らなかった」
そして迎えた8月15日。この日、天皇によるラジオ放送があることを実は事前に知っていた。「天皇がしゃべること自体がまずありえないこと。大変な放送があるとそこら中で噂になってた」と当時の落ち着かない様子を思い返す。それでも、玉音放送が始まると「みんなひっそりとなって聞いていた。放送の後、大人の話を聞いても全然わからなかった」と、戦争が終わったという実感はすぐには湧かなかった。
造兵廠は米軍基地へと姿を変えたため足を向けることは無くなり、再び女学校での生活が始まった。憧れだった体育祭のダンスを踊ることもできた。段々と「好きなこと」ができる、平和な日常を取り戻していった。
地域を見守る
終戦後は愛川町で創業した電気会社に嫁ぎ、ラジオの修理や電話の取り付け、街灯の無い地域や相模川に架かる橋に電気を灯すといった電気工事全般の仕事を勤め上げた。現在、水郷田名に店を構え、息子、孫へと引き継がれながら60年以上続いている。最近は週に3回開かれている旭屋のマルシェを手伝うなど、その姿は元気そのもの。
「穏やかで静かで、本当に平和になった」と現在の田名を温かい目で見つめる。同時に、戦争の体験について、当時の出来事を共有し話せる人が地域に少なくなっていることを憂慮している。
今後の未来を担う私たちに対しては「戦争は自分の身に起こってみないと、わからないことがいっぱいあるからね」と言葉少なに。だが、激動の時代を生き抜いた貴重な経験から、平和な現代が続くよう、これからも地域を見守り続けていくつもりだ。
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