市内唯一の百貨店として地域に愛された伊勢丹相模原店(南区相模大野)が9月30日、29年間の歴史に幕を下ろした。その最後の姿を見届けようと、最終日には多くの市民が押し寄せた。実はその伊勢丹、緑区にも深い関わりがあった。青野原地区にある青野原小学校・中学校の体育館入口にある男性の胸像。贈り主は、「株式会社伊勢丹」(現・(株)三越伊勢丹)とある。
この胸像の主は、かつて(株)伊勢丹(当時)の会長を務めた故・小菅千代市氏だ。台座にある胸像の説明板や市の資料などによると、氏は1890年、旧青野原村字前戸に出生。旧姓は八木といった。青野原小学校を卒業後、11歳で串川の久保田商店に入社し、八王子店などに勤務すると、経営者である久保田氏からその忠実精励な人柄を買われて推薦され、1912年に伊勢丹呉服店(当時)に入店。伊勢丹創設者である小菅丹治氏の次女・愛子さんと結婚し、小菅姓となった。
丹治氏の逝去後は義兄である二代小菅丹治氏とともに社業の伸展に努め、30年に株式会社となった同社の常務取締役に就くと、60年に副社長、66年に会長に就任した。
東京で成功を収めた千代市氏だったが、故郷への思いは変わらず抱き続けたという。そんな氏が郷里のために申し出たのが、青野原公民館の建設費の寄付だった。
52年に住民の勤労奉仕などにより建設された青野原公民館は、学校や地域行事、婦人会活動など文化の拠点として活用されていた。そんな中、55年の町村合併後、59年に小学校、63年に中学校の校舎が新設されると、次には学校の体育館建設が求められていた。その矢先にあった千代市氏からの申し出で、事は運んだ。
67年11月、建設費2500万円の半分の寄付を千代市氏から受けて、鉄筋造2階建、延床895・5平方メートルの、体育館を併設した新しい公民館が建てられた。落成式当日には、氏も来町したという。
この公民館は30年にわたりクラブ活動や音楽祭、催事など地域に多大な貢献を果たした。その後、現在の青野原小学校・中学校の新築に伴って、取り壊されることとなった。
一方、現在の同校体育館は98年に新築され、千代市氏の胸像が入口付近に設置された。胸像の台座には、「株式会社伊勢丹は、同氏の栄誉を記念して胸像を贈り、ながく氏の業績をたたえるものである。昭和四十一年四月二十九日」とある。この胸像が伊勢丹から誰にどのような形で贈られたのか、そのいきさつなどは同社の史料にも記載がなく明らかでないが、氏の寄付を受けて建てられた前身の公民館にはすでに設置されていたようだ。
住民らが案内板設置
ところが、年月を経るとこの胸像のことを知る人が次第に少なくなってきた。そこで2013年、青野原地域振興協議会が「青野原中学校体育館の生い立ち」と題した案内板を作成。最初の公民館から現在に至るまでの建物の歴史や建設の経緯などを記し、千代市氏の胸像の脇に設置した。当時、同協議会の会長を務めていた鈴木忠廣さん(75)は「新たに赴任した教員も、体育館になぜ胸像があるのか、誰の像なのかがわからない。地域の声もあり、では案内板を作ってはどうかということになった」と振り返る。
「鮎を懐かしんだ」
橋本台に住む八木高男さん(85)にとって、千代市氏は曾祖父・福太郎さんの弟にあたる。前戸出身の高男さんが物心ついた頃には氏はすでに青野原を離れていたというが、「時々戻って来ては鮎を食べて懐かしんでいたようだ」と少年期の記憶を辿る。
八木さんは高校卒業後、上京して親戚が経営する厨房家具の製作会社「八木製作所」に就職。そこで、下請けとして伊勢丹とは頻繁に取引を交わしたという。
82歳で逝去した氏の葬儀には、八木さんの母親が参列したという。寄付の話について八木さんは、「故郷に錦を飾って、たいしたものだと思う」と氏の功績を称えた。
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