八王子 社会
公開日:2022.08.11
「空襲・疎開・弟の死」
中村 友子さん
私が初めてB29を目撃した昭和20年3月10日。渋谷の宮益坂あたりの空が真っ暗になるほど低空飛行をしていた。東京大空襲の日。浅草や日本橋が大きな被害を受けた。
当時、西新井に住んでいた妊娠中の姉が焼け出され、父は自転車で渋谷から姉を迎えに行き、焼け野原の中をいくつもの死体を避けながら姉を荷台に乗せ、一日がかりで帰ってきたことも昨日のように思い出される。
私は9人きょうだいで姉が6人。この空襲を機に山梨県の伯父を頼り、私と弟2人を預かっていただくことになった。初めて親と離れる寂しさ、疎開先では辛いこともたくさんあった。「白米のおにぎりが食べたい」と言って亡くなった9歳の弟のことは、今も私の脳裏に焼きついている。
伯父の家は機屋(はたや)だったのでお米はない。甘藷(かんしょ)や南瓜(かぼちゃ)のたくさん入ったご飯が食べられたら幸せ、と感謝しなければいけない時代に、怪我を負わされ亡くなった可愛い弟のこの言葉は姉として本当にショックだった。田舎は土葬で疎開者は墓もなく、ろくな火葬場もない。隣の樵(きこり)のおじさんが作ってくれた小さな棺をリヤカーに積み、薪もいっぱい積み込んで桂川の河原の小さな小屋で薪を焚いて火葬に。空襲警報が出たら火を消し河原に身を潜めなければならない。東京から来た父が一晩中、我が子の遺体を焼き続けた。残酷な火葬で骨壺もない。母は味噌壺をきれいに洗ってその中に納めた。骨壺を抱いて戦火の激しい東京に戻る父の背中がとても大きかったのを覚えている。
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