徒然想 連載293 花のお寺 常泉寺 住職・青蔭文雄
今月は、道(どう)は須らく通流(つうる)すべし、何を以(もっ)てか却(かえ)って滞(たい)せん。心住(しんじゅう)せざれば、法即ち通流するも、住(じゅう)すれば即ち縛(ばく)せらる、です。
出典は、中国、唐、慧能(えのう)『六祖壇経(ろくそだんきょう)』。
意は、道は滞りなく行くのが当然です。それなのに、なぜ停滞するのか。心が立ち止まりさえしなければ物事は滞りなく行くのに、心が立ち止まると、物事は束縛されてしまうということです。
ここでいう「道」は、私たちが生きる道、すなわち人生を言います。「人生をいかに生くべきか」。これが人間にとって永遠の課題であり、全ての宗教の求める所です。この文言では道は流れていなければならないと言っています。通流とは水が高きから低きに流れるようにそこにわずかの滞り、ひっかかりもない。そのような状態を指します。
私たちは、すぐに心にこだわりが生じ、とらわれてしまいます。このことを「心住する」と言っています。この雑念は、取り除こうとすればするほど心にはびこってしまいます。それが「縛せられる」ということです。
師は説く、雑念を取り除こうと思うこと自体が実は雑念の最たるもので「雑念は起り放しにしておけ」と。
桃蹊庵主 合掌
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