大和 社会
公開日:2025.08.15
報道と裏腹「もって3年」
上草柳 石川公弘さん(91)
津久井郡生まれの石川公弘さん(91)は、教師だった父の仕事のため、9歳の時に家族6人で大和にやってきた。現在も上草柳に暮らす。
太平洋戦争開戦の翌年7月、商社マンだった叔父が米国から帰国。母の実家がある茅ケ崎で、石川さんは叔父と父の会話を聞いた。
「日本はもって3年」。毎朝欠かさず新聞に目を通していた石川さんは、耳を疑った。のちに、日本海軍がミッドウェー海戦で大損害を受けたことを知った。それが隠された敗北だったことも。
「叔父と父の会話を聞いた日、外ではシンガポール陥落の旗行列。新聞やラジオは日本の有利な戦況を報じていた」。11歳の石川少年は、8月15日の玉音放送も「日本がソ連に宣戦布告したというアナウンスが始まるかと思った」という。
叔父の言う通り、3年ほどで日本は戦争に負けた。戦中は高座海軍工廠で働く台湾少年工の寄宿舎で舎監をしていた父は農業へ転身。しかし、ほどなく農地を手放すことになり生活は困窮した。
石川さんは早稲田大学に進学後、米軍キャンプ座間で宿直の通訳として働き、家計を支えた。
東京五輪を目前にした1964年9月8日、上草柳に米軍のジェット機が墜落した。速報した夕刊紙には、上空からの写真が掲載され、立ち昇る黒煙のすぐ隣に石川さんの自宅が確認できた。
ベトナム戦争から帰還した機体はバラバラに散り、子どもを含む5人が犠牲になった。平和の祭典を前にしたこの惨劇に、石川さんは憤りを禁じえなかった。
この出来事をきっかけに石川さんは市議選への出馬を決意した。初当選以来、28年にわたり「ほぼ基地問題を扱った」
終戦から今年で80年。石川さんは自身を「保守の立場」と前置きして、続けた。「尊い命が国の平和や安全保障の犠牲になることは、いつの時代も許されない」
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