戻る

厚木・愛川・清川 文化

公開日:2023.08.18

工業団地は飛行場だった
愛川町郷土資料館で伝承

  • 疾風空輸機のエンジン始動(同館所蔵)

 終戦前の4年ほどの間、愛川と厚木にまたがる中津台地に「相模陸軍飛行場」があった。操縦者を養成する飛行場で、ここで育ち、その後特攻に向かった人もいる。終戦後は農地に、そして内陸工業団地に変貌し、残るのはわずかな遺構だけ。当時の様子を模型などで伝えているのが愛川町郷土資料館だ。

 飛行場があった中津台地は元々、養蚕のための桑畑などが広がっていたが、平坦な地形だったこともあり戦時中に飛行場へと整備。1941年に熊谷陸軍飛行学校相模分教所が開校した。正式名称は「相模陸軍飛行場」だが地元住民は「中津飛行場」と呼んだり、軍の関係者は「厚木飛行場」「相模原飛行場」など様々だった。

 飛行場は現在の空港のような舗装された滑走路はなく、草を刈って転圧した着陸地帯が広がっていた。勤労奉仕の一環で当時の小学生や中学生などが石拾いや草刈りなどに従事したという。

 敷地の真ん中には飛行機を動かす始動車や燃料補給車を走らせる中央通路がのび、これが今の「中央通り」に重なる。

 飛行場では「赤トンボ」と呼ばれた練習機で飛行兵を養成していたが、操縦者不足のため、軍は学徒出陣の学生を短期間で操縦者に養成することもあった(特別操縦見習士官)。将校待遇だったが特攻隊員となり戦死した人も多かった。

 飛行学校は戦況の悪化で終戦の1年ほど前に閉校。引き続き最新鋭戦闘機「疾風(はやて)」の訓練に使われた。

 終戦の2日前には2機の赤トンボが飛び立った。下田沖の米潜水艦への特攻で、戦果を確認する護衛機も離陸。しかし夕暮れ時で目標が発見できず、特攻の1機は大山に激突し、他の2機も行方不明となった。

街に点在する飛行場の遺構

 終戦後、飛行場は再び畑へと変わり、農業用の細い道が加わった。1966年には内陸工業団地に造成され、今は工場や倉庫が立ち並ぶ。飛行場時代の名残もあり、住宅街の一角に格納庫の基礎の一部や、企業の敷地に通信室の建物などが点在している。

 県立あいかわ公園内の郷土資料館では、模型や貴重な写真などを展示中。戦闘機の部品や、飛行場の軍属として働きフィリピンで戦死した人の遺品も。故郷への思いを達筆に綴ったハガキや、遺族への「死亡告知書」なども並ぶ。学芸員の山口研一さん(64)は「今は平和で飛行場があった実感はわかないと思う。展示を通じ歴史に触れてほしい」と話す。12月の企画展では初公開資料を展示する予定。

戦後、飛行場には米軍が

 脇嶋定夫さん(96歳・中津)は戦時中、相模陸軍飛行場の外周付近で米軍の機銃掃射に遭い、命からがら逃げた思い出がある。終戦は18歳の時。飛行場に来た米軍は、戦車で次々に日本軍の戦闘機を潰し、その部品を子どもたちが拾っていた。使わなくなった格納庫で地元の青年たちが映画会を開いた事もあったという。

ピックアップ

すべて見る

意見広告・議会報告

すべて見る

厚木・愛川・清川 ローカルニュースの新着記事

厚木・愛川・清川 ローカルニュースの記事を検索

コラム

コラム一覧

求人特集

  • LINE
  • X
  • Facebook
  • youtube
  • RSS