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横須賀・三浦 社会

公開日:2023.09.01

関東大震災と横須賀
碑で辿る100年前の爪痕

  • 港町公園内にひっそりと佇む供養塔

  • 震災後の中里通りの様子(提供/市自然・人文博物館)

  • 西渡船場と浦賀港交番の間に立つ慰霊塔

 10万人を超える死者・行方不明者、家屋損壊や焼失など甚大な被害をもたらした関東大震災(1923年9月1日午前11時58分)から今日でちょうど100年。横須賀市(当時は横須賀市・田浦町・浦賀町・久里浜村・衣笠村・北下浦村・長井村・武山村・西浦村)でも震度6から7の強い揺れに見舞われ、2600人以上の死傷者が出るなど大きな被害を受けた。市内には犠牲者へ哀悼の意を示す慰霊碑や供養塔が今も数多く残り、未曾有の大地震の痕跡と教訓を現代に伝えている。急傾斜地が多かった横須賀はがけ崩れが多数発生。そのうち、とくに被害が大きかった2カ所を取り上げた。

汐入 幅440mのがけ崩れ

 市内で最も大規模だった土砂災害は、横須賀港を眼前に臨む港町(湊町とも表記/今の汐入町5丁目)にある見晴山の急斜面で起きた。

 長さ約440m、高さ約30mの広範囲にわたって崩落。付近には横須賀停車場(JR横須賀駅)や市街地へと続く道が伸びていたことから乗降客や通行人、近隣住民など約50人が生き埋めになったという。

 国道16号線から路地に入った先、閑静な住宅地にある港町公園には、がけ崩れの犠牲になった人の名前や年齢などが刻まれた遭難者名碑がある。数え年で13歳〜18歳までの市立横須賀高等女学校(現・県立横須賀大津高校)の生徒8人や逸見小学校教員、遠くは千葉県や静岡県出身者の名も記されている。

 現在、横須賀市自然・人文博物館1階で開かれているトピックス展示では、飛行艇が見晴山上空から震災後に撮影したパネル写真も展示され、横須賀海軍軍需部の倉庫も損壊する被害を受けた様子が見て取れる。

佇む慰霊の碑

 同公園内には「大震災遭難者供養塔」も立っている。もとは1929(昭和4)年9月1日、汐入町2丁目の国道沿いに建立されたもの。碑文には「本市モ亦其厄ヲ免レス随所ニ悲惨事ヲ現出シタリ而シテ其最甚シキヲ當所トス」「當市ニ於ケル犠牲者五百十七名ヲ追薦ス」とあり、市内517人の犠牲者の供養を目的に建立された。

 震災から13年が経過した36(昭和11)年に震災記念閣の落成とあわせて現在の場所へ移設。その際の寄付者芳名には、さいか屋創業者の岡本傳之助氏や小泉純一郎元首相の祖父にあたる又次郎氏ら元横須賀市長が名前を連ねるほか、相模運輸や湘南電気鉄道など地元の企業や団体も広く協力した記録が残っている。

 また、同じ敷地内に大震遭難追善地蔵尊と祠、それを示す石碑、手水鉢も現存。周囲の除草は市公園管理課が維持管理業務として行っているが、供養塔などの管理は関知していないという。

浦賀 愛宕山が崩落

 ”造船の街”として栄えた三浦郡浦賀町では、200人を超す犠牲者が出た。住宅のみならず日本海軍の駆逐艦などを製造・修理していた浦賀船渠(ドック)が火災で焼損したほか、最も人的被害が深刻だったのは、愛宕山の東側斜面の大規模ながけ崩れだった。

 場所は蛇畠地区と呼ばれる現在の西浦賀1丁目。同地に設置されている案内板や史料によると、高さ60mから崩落した土砂は74の家屋と約100人を巻き込みながら麓まで押し寄せ、道路の寸断や港湾内も埋没させた。そこから800mほど離れた今の浦賀生協付近の山などでも通行人が命を落としたと記されており、地域内で同時多発的にがけ崩れが起こっていたことが分かる。

 亡くなった命を弔おうと「関東大震災慰霊塔」が建立され、一度は撤去されたが1972(昭和47)年に西渡船場横に再建。半世紀を越えて愛宕山を見守り続けている。

 慰霊法要は浦賀ドック周辺を会場に毎夏開かれる「浦賀みなと祭」内で、水難者・引揚船関連戦病死者などの慰霊とともに実施され、今年も8月19日に犠牲者へ祈りが捧げられた。

状況綴った日記

 市立中央図書館で現在行われている企画展では、写真パネルや当時の新聞記事のほかに、同館郷土資料室が保管する元浦賀町長の石渡秀吉氏の妻・信さんの日記や町役場助役の日誌を展示。地震発生直後の町の様子や被災状況などについて綴られた記録の一部を見ることができる。

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