OGURIをあるく 〜小栗上野介をめぐる旅〜第4回 駿河台編【2】文・写真 藤野浩章
福島県郡山市に生まれた安積(あさか)艮斎(ごんさい)は、漢文の大家として注目された人物だった。さらに幕末には朱子学などの学問や海防論に加えて外国の事情に詳しく、彼が主催した塾には多くの門人がいたという。
後に幕府直轄の学問所である昌平黌(しょうへいこう)(昌平坂学問所)の教授になる彼の弟子はのべ二千人とも言われ、吉田松陰(しょういん)、高杉晋作、岩崎弥太郎、そして小栗忠順(ただまさ)、後に小栗の盟友となる栗本鋤雲(じょうん)など、幕府側にも新政府側にも教え子がいた。
当の艮斎は宮司の息子だったが、16歳で近くの村に婿入りするも妻に嫌われて発奮。17歳で江戸に出て苦労して学問を究めていったという、なかなかドラマチックな人物だ。幕末の動乱期にあって、当時先進的な学問はもちろんだが、きっとその人柄にも多くの人が影響を受けたのだろう。
東善寺・村上泰賢(たいけん)住職の著書『小栗上野介』によると、艮斎の教育の特徴は"とにかく褒めること"だった。「詩も書もほめようがないものは、その書かれた紙をほめた」ほどだったという。
その艮斎が最初に私塾を開いたのが神田駿河台、小栗邸の敷地内だった。湯島聖堂の敷地内にあった昌平黌から小栗邸までは徒歩数分の距離だから、学問の総本山とも言えるエリアにたまたま家があった縁が、艮斎と小栗を引き合わせたことになる。艮斎の塾は評判になって弟子が増えたことから手狭になり近隣に移転するが、小栗邸の学び舎(や)は分校としてずっと残していたという。
その縁から、小栗剛太郎(忠順の幼名)は9歳で入門する。艮斎は当時45歳。"褒めて伸ばす"教育が、小栗少年の基礎を形づくっていった。
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