OGURIをあるく 〜小栗上野介をめぐる旅〜第45回 横浜編【6】文・写真 藤野浩章
「小栗のフランス狂いと、また言われることでしょうな。(中略)言いたい者には言わせておけばよいのでござるよ」(第七章)
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横須賀製鉄所の建設が正式に決まり"責任を取る"形で無役になった小栗。しかし彼を放っておくほど、幕末の状況は単純ではなかった。駿河台の家にはひっきりなしに幕臣が足を運び、彼の意見を求めてきたのだ。
その1つが、陸軍の軍制改革。以前、短い在任期間に小栗が設計に携わったが、未だに江戸初期以来の旗本を中心とした体制だったため、自前の造船所を建設する海軍に追いつくための近代化が急がれていた。そこで彼はフランスに協力を仰ぐことを画策する。仏から士官を呼んで訓練を進めるに当たり、言語の習得も重要だ。
こうして陸軍御用取扱浅野氏祐(うじすけ)を通じて上申した案が採択され、仏から軍事顧問団の派遣に加え、1865年春に「横濱佛蘭西(フランス)語伝習所」が設立される。ここでは、後に明治新政府で活躍し日本の仏語学の権威になる面々に加え、小栗の養子、又一(またいち)も学んだ。
これで安全保障の根幹を広く仏から学ぶ体制が整ったが、冒頭のセリフの通り、幕府内外からの批判は日に日に大きくなりつつあった。そんな中、前の年に征伐があったばかりの長州藩で反幕府の動きが公然と上がり、2回目の長州征伐が行われようとしていた。
こんな危機的な状況で幕府が頼りにするのは、もちろん小栗だ。ついに4度目の勘定奉行に任命される。彼が最終的に罷免されるのは3年後の江戸城だ。幕府と日本の未来を賭けた、1000日間の"最後の闘い"が幕を開ける。
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