横須賀・三浦 コラム
公開日:2025.07.11
三郎助を追う〜もうひとりのラストサムライ〜
第2回文・写真 藤野浩章
観光客で賑わう函館駅から路面電車に乗って15分ほど。千代台(ちよがだい)停留所で降りると、目の前には野球場が見えた。周辺は五稜郭から続く台地の一部で、野球場や陸上競技場があるスポーツの拠点になっているようだ。
「千代台」という名は、大河ドラマでもおなじみの8代松前藩主・松前道広が「千代の岡」と名付けたのが始まりだという。鶴が飛来する場所だったらしく「鶴は千年」が由来だとか。
しかしそんな牧歌的な雰囲気は、道広の没後たった37年で一変する。この場所に置かれた千代ケ岡陣屋が箱館戦争最後の激戦地となり、中島三郎助と息子の恒太郎(つねたろう)、英次郎(ふさじろう)の3人が戦死したのだ。
『函館市史』によると、決戦が迫ると守備隊は総崩れになり、本陣であった五稜郭へ逃げ帰る者も続出。「日頃最も過激の論をはいていたという渋沢成一郎」に至っては「彰義(しょうぎ)隊を率いて湯ノ川村へ遁走(とんそう)」と書かれる有様だった。しかし中島ら「浦賀奉行組与力時代からの同志は奮戦」。ほぼ唯一、浦賀隊だけが果敢に戦ったというのだ。
実はこれには伏線があった。新政府軍が攻撃を加えるに当たり、箱館政権で陸軍奉行だった大鳥(おおとり)圭介らは、手薄な陣屋ではなく五稜郭で敵を迎え撃とうと説得する。しかし、三郎助は拒絶。日頃から彼は「ここは我墳墓の地なり」と言っていた、と市史には記載されている。
その後の歴史を見ても、渋沢や大鳥の判断が正解だろう。しかしなぜ彼は、誰が見ても勝ち目がない無謀な戦いに挑んだのか。三郎助のことだから、きっと何かあるに違いない。それを見つける旅になりそうだ。
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