横須賀・三浦 コラム
公開日:2025.07.18
三郎助を追う〜もうひとりのラストサムライ〜
第3回文・写真 藤野浩章
三郎助が最期を迎えた千代ヶ岡陣屋があった辺りは、明治に入ってから監獄、後に軍の練兵場や刑務所が置かれたそうで、陣屋の正確な位置は分からないという。
そして1930(昭和5)年に刑務所が移転して住宅地となり、翌年には「中島町」と名付けられる。
当時は北洋漁業が最盛期を迎え、函館の人口が急増していた時代。工業も発達して繁栄を謳歌する一方で住宅問題も発生し、市域が拡大していたという。その中で大規模な町名と地番の改変が行われ「史実に因(ちな)む新名称」が各所に付けられた。一覧を見ると、人名は中島町と、日露戦争で活躍した乃木希典(まれすけ)から取った乃木町だけ。戦前だけに意図的なものもあるかと思うが、ここに彼の名前が仲間入りする。
その後、戦争によって函館の運命は一変するが、今でもその名は使われていて、あちこちに中島の文字が書かれた標識や看板が見える。
その一角”中島町36”にあるのが「中島三郎助父子最後之地」の碑。今でも、毎年5月の箱館五稜郭祭で碑前祭が行われているという。
蝦夷(えぞ)共和国と称した旧幕府脱走軍による箱館政権で、三郎助は箱館奉行並に選出された。副知事的な役割だが、軍事の専門家だった彼にとって民政を担当するのは相当な苦労があったろう。箱館での動きについては、後半で取り上げたい。
浦賀から7百キロ以上離れた地で最期を迎え、箱館政権関係者で唯一、地名になった三郎助。どんな人物だったのかますます興味深くなってきたが、彼から学ぶことはとても多そうだ。まずは浦賀に戻って、彼のルーツを見ていこう。
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