横須賀・三浦 コラム
公開日:2025.07.25
三郎助を追う〜もうひとりのラストサムライ〜
第4回文・写真 藤野浩章
浦賀駅からバスで5分弱。浦賀病院バス停を降りると、目の前には浦賀湾が広がっていた。
湾にL字型の桟橋が突き出ていて、東屋のある公園になっている。ここはかつて陸軍桟橋があったところで、太平洋戦争終結後に南方から兵士や関係者が引き揚げて来た際、最初に故郷の土を踏んだ場所だ。
今からちょうど80年前の秋、首都圏では横浜とここ浦賀が引揚港に指定され、それからおよそ1年半で浦賀には実に56万人が上陸したという。故郷を想い続けた人々、日本を前にしてコレラなどの病気になる人。引き揚げそのものも過酷だが、それを受け入れた街の人々にもまた想像を絶する苦労があったのだろう。ここでは戦争は終わっていなかったのだ。
その時から遡ること1世紀あまり。中島三郎助はこの地に生を受けた。父は浦賀奉行所与力(よりき)・中島清司(きよし)。目の前に広がる風光明媚な海は、世界と直接繋がっている--これが、三郎助に刻まれた最初のDNAだったのかもしれない。
浦賀病院を回り込むようにして、港と反対側のエリアに入る。微妙に曲がった細い路地が続き、まるで迷路のような様子は、江戸時代からさほど変わっていないのではないだろうか。
この先にあるのは、浦賀奉行所跡。当時の地図を見ると、広大な奉行所を囲むように、奉行の補佐役である与力、そして与力を補佐する同心(どうしん)たちの住まいがズラリと並んでいる。
幼少期から奉行所が世界のすべてだった三郎助。しかしその奉行所が、新しい世界を開く大きな渦に巻き込まれていくなど、想像だにしていなかっただろう。
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